小説「サークル○サークル」01-367. 「加速」

「はい、これ」
シンゴはアスカに数枚の紙を手渡した。
「何……?」
アスカは何を手渡されたのかわからず、怪訝な顔をする。しかし、手に取った紙に視線を落とし、「これって……」と驚きの表情へと変わった。
「ターゲットとの会話でアスカが有利に話を展開出来るようなシュミレーションをしてみたんだ」
「すごい……。昨日の夜、これを?」
「まぁね」
アスカは一通り、目を通すと、シンゴの瞳をしっかりと見据える。
「シンゴ、本当にありがとう」
アスカは心底嬉しそうに言った。彼女の瞳にはシンゴへの尊敬と感謝がたたえられているようだった。
「じゃあ、早速、今日の夜、バーに行ってみるわ」
アスカはそう言うと、にっこりと微笑む。
その微笑みにシンゴは若干の不安を感じずにはいられなかった。
ターゲットとアスカとの間に何かが起こるとは思っていない。けれど、可能性はいつだって、ゼロではないのだ。
シンゴはもやもやとした気持ちを抱えたまま、微笑むアスカに微笑み返した。

小説「サークル○サークル」01-351~01-360「加速」まとめ読み

「どういうこと?」
アスカは写真をまじまじと見る。
その写真は別の案件で対象者を写したものだった。
ターゲットである男性の少し後ろにマキコが写っている。
「マキコは別の案件で不倫相手だったってこと……?」
混乱する頭の中をアスカは整理しようとする。
「この写真の書類は……」
アスカは写真の案件の書類を探そうと、山積みになっている書類に手を伸ばした。
その瞬間、ばさばさと書類の山が崩れ、紙が散乱する。
「最低……」
アスカはしゃがみこみ、書類を拾い始める。
時間が気になって、時計に目を遣れば、マキコが来る五分前だった。
取り敢えず、散らかった書類を拾い集め、何事もなかったように再び机の上に書類を置いた。
それと同時に来客を知らせるインターホンが鳴った。
「どうぞ」
ドアを開けて、アスカはマキコを出迎える。
そのお腹は以前会った時よりも、幾分か大きくなっているように見えた。これでもまだヒサシが気が付いてないのだとしたら、きちんと妻のことを見ていないのか、よっぽどアホだ、とアスカは思った。

「ご無沙汰しています」
マキコは丁寧に巻かれた巻き髪を揺らしながら、お辞儀をした。
「どうぞ、こちらへ」
アスカに促されるまま、マキコはソファに腰をかける。
アスカはお湯を沸かし、ノンカフェインの紅茶を淹れた。
「いつもすみません」
マキコは恐縮しながら、アスカから出された紅茶に口をつける。
「わざわざ、ご足労いただいてありがとうございます。今回のご依頼の進捗のご報告なんですが……」
「どんな感じでしょう? 相手の女性とは別れてくれそうでしょうか?」
「今、女性の方と接触しているところです。あと少しで別れさせることが出来ると思います」
「そうですか。じゃあ、最初の依頼通りの日程で別れさせていただけるんですね」
「そうなりますね」
マキコはそっと胸を撫で下ろす。
他にも女がいることはわかっていたが、まだここで言うわけにはいかなかった。ヒサシとの交渉が終わっていないからだ。
「お身体の方はいかがですか?」
アスカは差し支えない程度にマキコに尋ねる。
「お陰様で、順調ですよ」
「それは良かったです。それから……」
アスカは一通り、今後必要となる手続きについての説明を始めた。
けれど、アスカの気持ちはここにはなかった。あの写真のことがずっと脳裏を過っていたのだ。
一体、どういうことなのだろう……?
疑問だけがくるくると頭の中を回り続けていた。

マキコを送りだし、アスカはどかっと椅子に腰をかけた。
煙草の箱を振り、煙草を取り出す。最後の一本だったので、マキコはくしゃりと箱を潰した。
手近にあったライターで煙草に火をつけると、煙をくゆらす。
嫌なことがあった時、疲れた時は、煙草が最高に美味しい。今日はそのどちらもだったから、二倍美味しく感じるような気がしていた。
アスカは進捗状況を報告しながら、くまなく、マキコを観察していた。
けれど、結局、マキコに不審な点はなかった。
お腹が大きくなっているのかどうかは、ワンピース姿のマキコからはわからなかったけれど、ヒールは履いていなかった。
マキコの雰囲気からすると、妊娠する前まではきっとヒールを履いていただろう、というのは安易に想像が出来た。あれは、妊娠の為に大事を取っているのだろう。
様々な状況を見ても、やはり妊娠しているのではないか、とアスカは思った。でも、妊娠している振りを徹底的にしているのかもしれない、とも思った。
一体、どちらが真実なのだろう? とアスカは短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、溜め息をついた。

アスカが帰宅すると、夕飯のいい匂いが漂っていた。
玄関の廊下からリビングに続くドアを開けると、肉を焼いているシンゴの姿があった。
「おかえり。そろそろ、帰ってくる頃だと思ったんだ」
シンゴは真剣な顔で肉をトングで引っ繰り返しながら言った。
「ただいま。はい、頼まれてたアイスクリーム」
「ありがとう。今日、コンビニに行ったら、売ってなくってさ」
「もう在庫限りだったみたい」
「期間限定商品だからね」
「あるだけ買って来たから」
「あ、すごい量。ありがとう」
シンゴはちらっと視線を肉から食卓テーブルに置かれたアイスの入った袋にやると、嬉しそうに口の端をほころばせた。
アスカは手洗いとうがいの為に洗面所へ行くと、丁寧に手洗いとうがいをした。そして、鏡の前で軽く髪を整えた。
少し疲れた自分の顔に溜め息がこぼれそうになったけれど、敢えてアスカは鏡に向かって微笑んでみる。
ほんの少しだけ、元気になれたような気がした。アスカはシンゴの待つリビングへと向かった。

食卓のテーブルに着くと、焼きたての肉のいい香りが鼻先をかすめた。
「いただきます!」と二人は声を合わせて言うと、肉にナイフを入れる。
「今日ははちみつでマリネにしてみたんだよ」
「へぇ……楽しみ!」
アスカは嬉しそうに笑うと、肉を口に運んだ。
肉汁が溢れ、少し遅れて甘めのソースの味が口の中に広がっていく。
「美味しい!」
「ホント!? 良かったぁ。初めてチャレンジするから、少し心配だったんだ」
「大丈夫よ。シンゴはほとんど料理失敗しないじゃない」
「そうだけど、やっぱり、新しい料理にチャレンジする時はそれなりに不安はあるよ」
「意外だなぁ」
アスカは一緒に用意されているパンプキンスープに手を伸ばす。
「あ! これ、冷静スープなんだね」
「うん、昨日のパンプキンのクリームソースパスタのソースが余ってたからね。そこに豆乳を足して、作ったんだ」
「ホント、シンゴって料理上手よねぇ」
アスカは感心したように言う。
「そう言ってもらえて、何よりだよ」
シンゴは笑顔で言いながらも、アスカの様子がいつもと違うことに気が付いていた。

食事を終え、シンゴは後片付けをしながら、ソファに座ってテレビを観ているアスカに視線を向ける。
一見、テレビを観ているようには見えるけれど、ただテレビの画面を眺めているだけなのだということにシンゴは気が付き、やっぱり、様子がおかしいな……とシンゴは思う。
洗い終わった食器の泡を水で流しながら、シンゴはアスカのゲンキがない理由の仮定を始める。仕事が上手くいっていない、ターゲットと何かあった……。でも、シンゴの前でもあからさまに落ち込んでいるところを見ると、仕事で何かしらのアクシデントがあったのだろう、という結論に達した。
全ての食器を洗い終えると、シンゴはホットミルクを持って、アスカの隣に腰をかけた。
「はい、どうぞ」
アスカの前にコースターを敷き、シンゴはホットミルクを置く。
「ありがとう……」
少し驚いたようにアスカはシンゴを見た。
シンゴは隣でホットミルクを飲みながら、アスカと一緒にテレビの画面に目を向ける。
CMに入るとほぼ同時にシンゴは口を開いた。
「何かあった?」
シンゴの言葉にアスカはドキリとして、シンゴを見た。
「どうして……?」
「見てればわかるよ。夫婦なんだから」
そう言って、微笑むシンゴにアスカはぽつりぽつりと話し始めた。
「依頼者が妊娠しているっていう嘘をついてるって話は前にしたでしょう?」
「ああ」
「それでね、やっぱり、依頼者は妊娠してない、とは言っては来なくて」
「そりゃあ、妊娠してないのをしてるって言ってて、やっぱり、嘘でした、とは言いづらいよね」
「うん……そうだとは思うの。だけど、今日、もう一つ、不自然っていうかなんていうか……奇妙なことがあったのよ」
「奇妙?」
シンゴは鸚鵡返しに問う。
「そう。奇妙、が一番しっくり来る気がする」
アスカはそう言って、ソファに座り直した。
「前に担当した案件で使った写真に依頼者が写っていたの」
「前の案件では、彼女がターゲットだったってこと?」
「そう……。随分、昔の案件で、まだシンゴにも出会う前だったと思う。本当に偶然だったのよ。写真が床に落ちて……それで見つけたの」
シンゴはアスカの話を真剣な眼差しで聞いている。
些細なことかもしれなかったが、アスカはシンゴのそんな態度が嬉しかった。

「髪型も違ったし、雰囲気も違って、昔は愛人っぽいっていうのかな……。今の妻ですっていう風格とは全然違ってて。あの頃とは、結婚して苗字が変わってるから、ピンと来なかったのよ」
「なるほどね……。でも、過去に何があったって、おかしくはないんじゃない?」
シンゴは自分の少し後ろめたい過去を思いながら言う。
「そうなんだけど……。今回の妊娠の嘘とあの写真と……。なんか腑に落ちないっていうか……」
「不倫をする女だから、信用ならない、と思ったとか?」
「それもあると思う。ただ見た目は妊婦っぽいっていうか……。あのタイプなら、ヒールは欠かさないはずなのに、ヒールじゃなくてフラットシューズを履いてたし……」
「芸が細かいな」
「うん、まさしく、そんな感じの印象を受けたわ」
「依頼者とターゲットは現在、男女の関係にはないんだったよね」
「うん。そうなのよ。だから、妊娠するなんて有り得ないわ」
「だとしたら、考えられるのは……」
そう言って、シンゴは思考を巡らせた。

「昔の案件の不倫がまだ続いていて、依頼者のお腹の子の父親はその時の不倫相手――」
「まさか」
アスカは驚いて、目を見開き、シンゴを見る。
「でも、ターゲットの子どもじゃないなら、その可能性は十分に考えられるだろう? ましてや、昔、不倫をしてたんだ。不倫はいけないことっていう概念はそもそも持ってないだろう」
「確かに……。でも、それって、前の案件は失敗してたってことよね」
「いや、そうとも限らないと思うよ。偶然、街で再会して、やけぼっくいに火が付いたのかもしれない」
「どっちみち、厄介ね」
「ああ、厄介なことに変わりはないね」
「でも、私のところにターゲットの不倫をやめさせるように、依頼して来たのはどうしてかしら?」
「簡単なことだよ。慰謝料を取る為さ」
「だったら、別れさせ屋じゃなくて、探偵に依頼すれば……」
「別れさせ屋に依頼するほど、愛してたのにやむを得ずっていう演出をしたかったか、または……」
シンゴはしばらく考えた後、「君に依頼したかったのかもしれないね」と言った。

「どういうこと?」
「別れさせ屋っていうのは、その方法にもよるけれど、探偵とは違って、ターゲットに顔がバレることもあるだろう?」
「確かに……。でも、あの時はターゲットは男で、相手の女――今回の依頼者だけど、彼女には今回みたいに接触はしていないわ」
「君は接触していない、と思っているかもしれない。でも、本当は間接的に接触していたとしたら?」
「そんなこと……」
「ないとは言い切れないだろう? いつどこで監視されているかなんてわからないじゃないか」
「それって、私が探偵に監視されてたって言いたいの?」
「その通り」
シンゴは涼しい顔をして言う。そんなシンゴをアスカはつまらなさそうに見た。
まさか、私が監視されていたなんて――。
アスカはそう思いながらも可能性としては、ゼロではないな、と思っていた。
随分、昔のことになるから、アスカの記憶も曖昧だ。自分の仕事の詰めが甘かったとは思わない。けれど、探偵だって、プロだ。こちらが気付くようなヘマはしないだろう。
そこまで考えて、アスカは溜め息をついた。
どんなに過去の仕事の失敗を悔やんでも、今の自分になんのプラスももたらさない。

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小説「サークル○サークル」01-366. 「加速」

翌朝、アスカが起きてくると、すでにシンゴが朝食を作っているところだった。
「おはよう」
「あ、おはよう。ゆっくり眠れた?」
「うん……少し、頭がガンガンするけど……」
「そう思って、今日は和食にしたよ」
シンゴに言われて、アスカがテーブルに視線を向けると、そこには焼き魚やのりなどが並べられていた。
「今、お味噌汁とごはん入れるから、座ってて」
「うん……」
アスカはぼーっとしながら、焼き魚を見つめていた。昨日のことが上手く思い出せない。
「はい、お待たせ」
アスカがぼーとしてる間にも、シンゴはテキパキと動き、ごはんと味噌汁をよそって、席についた。
「いただきます」と二人は声に出し、同時に味噌汁に手を伸ばした。
アスカはまだ頭がぼーっとしているようで、何もしゃべらない。シンゴもアスカのことを思って、敢えて何も話さなかった。
無言のまま、食事が終わり、アスカが後片付けをしている間にシンゴは書斎へ戻った。
書斎から出てきたシンゴの手には数枚の紙があった。

小説「サークル○サークル」01-365. 「加速」

でも、僕は作家だし、想像力に関しては、ターゲットよりも優れているはずだ、とシンゴは思う。どんな手段でターゲットが切り返して来ようとも、太刀打ち出来るだけのアイデアを出せるはずだとも思っていた。
問題はアスカがどういう選択をするか、だ。
シンゴは不安だった。
アスカはターゲットに心を奪われかけていた時期がある。もし、もう一度、ターゲットがアスカに好意を寄せたとしたら、アスカはターゲットの方に転がってしまうかもしれない。
だったら……とシンゴは思う。だったら、シンゴがアスカのブレーンになればいいのだ。
相手は男だ。女のアスカより同じ男の自分の方が戦うには適している、とシンゴは思った。
シンゴはテレビを消すと、書斎へと向かう。
眠たさを感じながらも、シンゴはシミュレーションを繰り返し、まとまったアイデアは忘れないようにデータとして残していく。
シンゴは自分がアスカのことでこんなにも真剣になるとは思ってもみなかった。

小説「サークル○サークル」01-364. 「加速」

シンゴはべろべろに酔ったアスカを寝室に運ぶと、ソファに腰をかけ、テレビを観ていた。夜中のハイテンションなバラエティ番組はシンゴの重たい気持ちをほんの少し軽くしてくれる。
けれど、シンゴはテレビを観ながらも、アスカのことを考えていた。
漸く、ターゲットからアスカが離れたと思っていたのに、また接触をするという。ターゲットはアスカの提示する条件を飲むだろうか。アスカ自体を求めてきたりはしないだろうか。考えれば考えるほど、嫌な考えが脳裏を過っては消えていった。
そう言えば……とシンゴはユウキのことを思い出す。ユウキはどうしているのだろう。アスカがこんなに苦戦をしていられているということは、ユウキはレナとターゲットを別れさせることに成功していないということだ。
シンゴは自分がどう立ち回るべきか、アスカになんとアドバイスするべきかを悩んでいた。
ターゲットは強敵だ。いろんな女を相手にしてきて、女には慣れているし、自分がどうすれば、良いかを考えられるだけの頭の良さも持ち合わせているのは明らかだった。


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