小説「サークル○サークル」01-306. 「加速」

「あれ? 帰ってたの?」
しばらくすると、アスカがバスタオルで髪を拭きながら、リビングへとやって来た。
「うん、ただいま」
「あら、シンゴも飲んで来たのね」
「たまにはね」
「私も久々にいっぱい飲んじゃった。シンゴもお風呂入ってきたら?」
「ああ」
シンゴはアスカからの質問に簡単な相槌を打つことしか出来なかった。
取り敢えず、熱いシャワーを浴びて、考えようと思った。

「ねぇ、飲み直さない?」
シャワーを浴びて、リビングにやって来たシンゴにアスカは言った。
「明日、仕事なんじゃないの?」
「いいわよ、休むから」
「そんな……所長がそれでいいの?」
「いいの。むしろ、所長だからいいのよ。たまには休まなきゃ」
「それなら、付き合うよ」
「そうこなくっちゃ!」
アスカは嬉しそうに言うと、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを二本取り出した。
アスカはグラスにビールを注ぐと、ソファに座っているシンゴに手渡す。
「結構、飲んできたみたいだけど、飲んで大丈夫なの?」
シンゴは心配そうにアスカに訊いた。

小説「サークル○サークル」01-305. 「加速」

シンゴはずっとアスカがヒサシと浮気をしていると思っていた。だから、何度も尾行をしたし、悩みもした。けれど、アスカは浮気などしていなかったのだ。
一時期、アスカの様子は少しおかしかった。きっとヒサシに恋をしていたのは確かだろう。だが、彼女はあと一歩のところで踏みとどまっていたのだ。ヒサシは言っていたではないか。“やっと俺の誘いに乗ってくれる気になったのかと”と――。
アスカはヒサシに誘われていながらも、ヒサシの誘いは乗らなかったということだ。アスカはシンゴを裏切ってなどいなかった。その事実にシンゴは安堵し、それと同時に罪悪感を覚えずにはいられなかった。
シンゴは頼んだドリンクを半分も飲んでいなかったけれど、立ち上がった。家に帰らねば、と思ったのだ。

シンゴが家に着くと、アスカがシャワーを浴びているところだった。
アスカと顔を合わせたら、一体、どんな顔をしたらいいのだろう、と思った。良い案は浮かばない。速く打つ鼓動にシンゴはさまざまな思いを巡らせた。

小説「サークル○サークル」01-291~01-300「加速」まとめ読み

「……それがどうかした?」
シンゴは視線を遠くにいるアスカから動かさずに言う。
「いえ、シンゴさんの敵と俺の敵は一緒なんだなって思って」
敵? シンゴはその言葉に違和感を覚えた。
確かにアスカが浮気をしていることは許せるようなことじゃない。けれど、相手の男を敵だと思ったことはなかった。浮気をしている妻を責めたい衝動に駆られることはあっても、相手の男に対して、憎悪に似た感情もなければ、責め立てたいとも全く思わなかった。
理由は自分でもよくわからない。ただアスカに裏切られた、という事実がシンゴをひどく傷つけていた。
「シンゴさん……?」
黙りこくるシンゴにユウキは不安そうな表情を見せる。
「ああ、ごめん。つい考えごとを」
「そうですよね……。今から、浮気相手に会おうっていうんですから、平常心でいられないですよね……」
「それは君も同じじゃないのか?」
「ええ、だからこそ、シンゴさんの気持ちがわかるんです」
ユウキは苦悩に満ちた顔で俯いた。

ユウキにはああ言ったものの、シンゴは然して動揺も緊張もしていなかった。それは今回会うのが初めてだからではないということと、ある程度の覚悟が出来ているからだろう。アスカとターゲットが浮気をしているのが確かならば、アスカはきっと別れを切り出すだろう、とシンゴは思っていた。その時、如何にさりげなく受け入れるかがシンゴの手腕にかかっていた。男のプライドとも言える。
本当は全てを知っていた。知っていて、知らない振りをし続け、自分のところに戻って来るなら、寛大な心で受け入れ、出て行くというのなら、快く送り出す。シンゴは考えに考え抜いて、これが一番スマートな対応だと思ったのだ。
本心は縋りたい。縋って戻って来てくれるなら、プライドなんて捨てて、縋ってやりたいとも思った。けれど、そんなことをしたって、ますますアスカが離れていくだけだ。それをわかっていたシンゴは、アスカが一番心苦しい方法を取ろうとしているとも言えた。

縋られれば鬱陶しくも思うだろうが、あっさり受け入れられてしまったら、その呆気なさに心は乱されるに違いない。
シンゴにはほんの少しだけそんな打算もあった。
悩み、苦しめばいい――。
ほんの、ほんの少しだけ、そんなことを思っていた。
シンゴは自分の考えの底意地の悪さに苦笑してしまいそうになる。
けれど、結婚という契約をした上で、その契約を破ることが一体どういうことなのか、今一度、アスカには考えて欲しかった。あまりにも無責任すぎる、となじりたい気持ちもあった。
別れてからの恋愛は自由だ。どうせ、恋人を作るなら、自分と別れてからにしてくれればいいのに、とも思った。そう思うものの、アスカはきっと今じゃないとダメなの、と言うのだろう、ということがシンゴには容易に想像がついてもいた。
もし結婚さえしていなければ、今ほど、腹も立たなければショックも受けなかっただろう。結婚さえしていなければ、別れるのは簡単だ。面倒な書類の手続きもいらなければ、財産分与で揉めることもない。

「何、話してるんでしょうね?」
ユウキはアスカとレナをちらちら見ながら言う。レナは俯き、アスカは両肘をテーブルにつけて、レナを心配そうに見ていた。
「核心に触れる話……かな」
「……そうかもしれませんね」
シンゴは早く切り込んだな、と思ったけれど、二人のあの様子を見ていると、核心に触れていると考えるのが妥当だとも思った。
「レナは……別れるんでしょうか……」
ユウキは下を向き、つぶやくように言った。
「別れると思うよ。アスカは別れさせるのが仕事だから」
「でも……俺がいくら言っても、レナは不倫相手と別れなかったんですよ……」
「だから、プロが別れさせようとしているんじゃないか」
「……」
「アスカは何があっても、別れさせるつもりだよ。相手の奥さんのこともあるし」
「そうですよね……。でも……」
ユウキは言いかけてやめた。シンゴは「でも、シンゴさんの奥さんはその不倫相手と浮気してるんですよね?」という言葉が続くとわかっていた。けれど、シンゴはそのことに敢えて触れなかった。

レナはしばらく俯いた後、しっかりと顔を上げた。
「私……別れた方がいいかなって……そう思ってるんです」
レナは泣き出しそうなのを堪えながら、切れ切れに言葉を紡ぐ。
「そう……。よく考えたわね……」
アスカは内心ガッツポーズを取っていたものの、表面的にはレナに同情するような素振りを見せていた。
これでレナがヒサシと切れてくれれば、アスカの仕事は無事終わる。マキコの依頼は完遂出来たことになる。
「アスカさんと話をしていて、元々、自分でも不倫なんて良くないなって思ってたから……。だから、私……やめようかなって……」
アスカはレナの話を静かに聞いていた。
「だけど、私、彼がいなくなってしまったら……って思うと怖くて……」
「わかるわ」
アスカは間髪入れずに言った。レナは少し驚いたようにアスカを見る。
「彼がいなくなってしまうことで、自分が壊れてしまうような、そんな不安……。それから、どんな素敵なことがあっても嬉しいとか幸せだとか思えないんじゃないかっていう不安……。いろんな不安が心の中に渦巻くのよね」
アスカは視線をテーブルの上へと落とした。

「……」
レナはアスカの言葉を聞いて、胸がいっぱいになってしまったのか、涙ぐみながら、その涙を零さないように天井を見上げた。
「だけどね、そういった不安って、不倫をやめようとしているから感じるものかしら?」
「え……?」
「どんな恋愛も終わりに向かっている時はそういった不安を感じるんじゃない? そうした不安に耐えたり、時に飲みこまれたりしながら、それを乗り越えられた時に新しい恋愛をするんだと、私は思うな」
アスカはそこまで言うと、にっこり微笑んで、レナを見た。
レナはまだ少し驚いたような表情でアスカを見ている。その表情はアスカの言ったことを理解することだけで精いっぱいのように見えた。
「だから、あなたが感じている不安は、不倫から来る不安ではないと思うの」
「……確かにアスカさんの言う通りかもしれないですね……」
「きっと大丈夫よ。別れた時は寂しくても、時間が癒してくれるはずだわ」
アスカは月並みなセリフだと思いながらも、それ以上の気の利いた言葉を思いつくことも出来ずに言った。

「時間が解決してくれるなら、私も立ち直れるんでしょうか……」
「ええ、あなたにしっかり覚悟があるなら大丈夫なはずよ」
「私、頑張ってみます。彼に、さよならを……言ってきます」
「彼とちゃんと別れられたら、飲みに行きましょう」
「えっ……」
「新しいスタートを切るんだもの。お祝いが必要だわ」
「アスカさん……」
レナは瞳を潤ませて、アスカを見た。アスカは穏やかに微笑み、レナを見据える。
「彼と別れたら、アスカさんに連絡しますね」
「ええ、連絡待ってるわ」
アスカは通りすがりの店員を呼び止めると、ドリンクを頼み、レナは追加で料理を頼んだ。
さっきまでの胸の閊えが嘘のようにレナは楽しそうにアスカと他愛ない話をし始める。
これからのことをレナはどう考えているのだろうか。アスカは少しの不安と心配を持ちながら、レナを見ていた。
彼女を受け止める誰かがいればいい。けれど、もしいないのだとしたら、自分が受け止める誰かになろう、とアスカは決めていた。仕事でレナと接触しただけなのだから、そんなことをする必要は全くない。しかし、アスカには真っ直ぐなレナを放っておくことなど出来なかった。

「なんだか和気藹々としてますよね……」
「表情がころころ変わって、どんな話をしているのか、どういった結果になっているのか……。確かにわかりづらいね」
シンゴは飲みながら、アスカとレナの様子を見ていた。
きっと話は終わったのだろう、とアスカの顔を見て思う。けれど、ユウキには敢えて何も言わなかった。シンゴにとっては、これからが本番なのだ。時間が過ぎていくに従って、落ち着かない気持ちをユウキに悟られまいとするので精一杯だった。
「この後、レナが奥さんと別れたら、レナの後をつけようと思います」
「不倫相手と会うかもしれないから?」
「はい……。もし会っていたら、止めようと思うんです」
「それはやめた方がいいよ」
「えっ……」
ユウキはシンゴの言葉に驚き、グラスを持とうとした手を止めた。
「どうしてですか?」
「もし、今日、彼女が不倫相手と会ったなら、それは別れ話をする為だからだよ」
「でも……」
「折角の別れ話の機会を自分で潰してしまっていいの?」
「それは……」
「アスカは必ず彼女と不倫相手を別れさせてくれるから、心配はいらないよ」
シンゴの言葉にユウキは驚いていた。

「シンゴさんは、奥さんのことを信用しているんですね」
「信用?」
予想外の言葉にシンゴは鸚鵡返しに問うた。
「だって、そうでしょう? 奥さんが必ずレナと不倫相手を別れさせるなんて……。奥さんを信用していなかったら。言えないことですよ」
「……」
「てっきり、シンゴさんは奥さんを信用していないんだと思ってました。不倫してるって、本当は思っていないんじゃないですか?」
「不倫してないって思ってたら、尾行なんてしないよ」
「不倫していないってことを確かめたいから、尾行しているように俺には見えます」
「……」
ユウキの言葉にシンゴは戸惑った。確かに何度も不倫をしていなければいいな、とは思った。けれど、状況を見れば、不倫をしていると思えることだらけだ。不倫をしていない、と思うのは、現実逃避以外の何ものでもないとシンゴは思う。
「不倫されていなければどれだけいいか……。でも、見ちゃったんだ。アスカが不倫相手とホテルに入って行くところ。今でも忘れられないよ。真っ白なコートの白色が鮮やかだった」
シンゴは嫌な記憶を振り払うようにかぶりを振った。

思いは加速していく。嫌なほど、好きという感情が走って行く。けれど、加速したものはいずれ減速し、やがて止まるように出来ている。同じスピードが続くことは決してない。
アスカは加速していく気持ちに気付いた時、いつか止まってしまう時が来ることを恐れ、そして、安心してもいた。
自分にはシンゴがいる。いつまでも、別の誰かを思い、追いかけようとしていいわけなどなかったのだ。結婚は契約だ。けれど、一番簡単に破棄してしまえるものでもあった。否、簡単に破棄してしまう人は、結婚が一つの契約である、ということをそもそも認識出来ていないのだろう。認識出来ていたとしたら、浮気なんてするはずがないのだ。
アスカはレナと別れると、一路バーへと向かった。以前、バイトをしていたあのバーだ。ヒサシがいるのかどうかはわからない。賭けだった。けれど、行かずにはいられなかったのだ。
電車に乗り、歩きなれた道を歩く。夜の風が冷たかった。アスカはぼんやりと灯る街灯に照らされながら、道を急いだ。その後ろにシンゴの姿があることに、アスカは気が付かない。
それぞれの思いを交錯させながら、二人は夜の道を急いでいた。

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小説「サークル○サークル」01-281~01-290「加速」まとめ読み

芸能人は大変だな、とシンゴは思った。一夜限りのお遊びも浮気も、全て電波を使って、全国に流されてしまうのだ。普通だったら、せいぜい、パートナーとその両親くらいにしか責められないのに、見ず知らずの人間にまで叩かれる。有名税と言ってしまえばそれまでだけれど、叩いている人間がその芸能人を応援していたとは考えにくい。そうなると、叩かれ損だ。
自分とアスカの場合はどうだろう……とシンゴは思った。
果たして、アスカを責めるだろうか。責めるだけの熱量を自分が持っているとは、シンゴには到底思えなかった。事実確認をして、腹が立っていることを冷静に伝え、その後、離婚の手続きについて話をするだろう。
浮気相手の男は一流企業に勤めているようだし、慰謝料請求をしてもしっかり払ってもらえそうだな、とそこまで考えて、苦笑する。
自分が欲しいのはお金なんかじゃないはずだ。シンゴだって、真面目に仕事をすれば、食べていけないわけではない。僅かばかりの印税だって、数か月に一度振り込まれている。

ただ相手の男がなんのペナルティもなしに生活を続けていくことが我慢ならなかったのだ。復讐と言っても過言ではない。そういった気持ちがシンゴの中に沸々と芽生え始めていた。
電気ケトルが湯を沸かし終えたことを知らせると、シンゴはドリップコーヒーを淹れる。全てのお湯がマグカップに落ちると、マグカップを持って、再び、ソファに腰を下ろした。
ワイドショーはまだゴシップを流している。
表示されている時間に目を遣り、シンゴはケータイを取り出した。
ユウキのアドレスに待ち合わせ時間を送ると、コーヒーに口をつけた。
程よい苦さを伴って、コーヒーはシンゴの喉をゆっくりと流れていく。
今日が勝負だ、とシンゴは思った。
今日、動かぬ証拠を捕まえて、アスカに話をするつもりだった。そうして、このもやもやした日々にピリオドを打とうと考えていた。
いつかはアスカが帰って来てくれる。そう思ってはいたけれど、今日のアスカの涙を浮かべたあの言葉で、揺らいでいたシンゴの気持ちは確かなものへとなってしまった。
壊れたものは二度と元には戻らない。
そうシンゴは確信していた。

もっと時間はゆっくり流れるものだと思っていた。けれど、夜はあっという間にやって来て、シンゴは今、ユウキとともにアスカの後をつけていた。
「こんなことして、本当に大丈夫なんですか……?」
あれだけ尾行する時は一緒にさせてくれと言っていたユウキだったが、いざその時が訪れると、どうやら落ちつかないようだった。
「バレなければね。まぁ、あまりオススメは出来ないけど」
「俺がもし尾行する時、シンゴさん、ついてきてくれませんか?」
「仕事が修羅場じゃなければ……。一応、考えておくよ」
シンゴはそれきり黙った。そんなシンゴを見て、ユウキの緊張感は更に高まる。
アスカは駅ビルの入口でレナを待っているようだった。
辺りをキョロキョロしたり、ケータイを気にしたりしいている
シンゴは腕時計を見た。腕時計は十九時の数分前だった。きっとアスカはレナと十九時に待ち合わせをしているのだろう。
「あ、来たみたいです」
ユウキの声にシンゴは顔を上げた。

アスカが前方を見て、ケータイをしまっている姿が見えた。
「えっ……」
突然、ユウキが緊張感のある声を出した。驚いて、シンゴはユウキを見る。その顔色はひどく悪かった。
「どうかしたの?」
心配そうにシンゴがユウキを見ると、彼の顔はみるみるうちに白さを増した。
「シンゴさん……こんなことってあるんですね」
シンゴはユウキの言っている意味がわからず、眉間に皺を寄せた。
「奥さんの待ち合わせ相手、俺の言ってた女の子です……」
シンゴは一瞬のうちに目の前が真っ暗になる。これはまずい、と思った。アスカが会っているレナはターゲットの不倫相手であり、そのターゲットとアスカは不倫している。そこにレナのことを想うユウキがいるのだ。ユウキの頭に血が上ってしまえば、修羅場になることは間違いない。勿論、その時点でシンゴがアスカを尾行していたこともバレるだろう。レナにだって、アスカの正体はバレてしまって、泥沼の展開が待ち構えていることは容易に想像出来た。

ユウキを連れて来たのは間違いだったな、とシンゴは内心毒づいた。けれど、こうなってしまっては、後の祭りだ。
シンゴは気持ちを入れ替えて、ユウキの肩にぽんっと手を置いた。
「今日は付き合わない方がいいと思うよ」
「いえ、付き合います!」
「僕は一人で大丈夫だし、好きな女の子を尾行するなんて良くないだろう。もし、彼女の不倫相手が出て来たら、どうするんだ? 感情的になって、彼女たちの前に出て行ったら、関係がぐちゃぐちゃになるだけだろう」
シンゴは暗に帰れと言っているのだが、ユウキにはその本意は届かなかったようだ。
「いえ、俺なら大丈夫です。冷静に対処しますから!」
ユウキは自信を持ってそう言った。シンゴは「でも……」と言いかけてやめた。ユウキの目があまりに真剣そのものだったからだ。
「わかった。くれぐれも無茶なことはしないようにね」
「はい!」
「どうやら、移動するみたいだね」
シンゴは動き出したアスカとレナの尾行を始めた。

「今日は行きつけの和食屋さんなんてどうかなって思うんだけど、そこでいいかしら?」
「はい! 最近、和食好きなんで、嬉しいです!」
レナは笑顔でアスカの質問に答える。こんなにも素直な笑顔を向けるレナを見ていると、ヒサシのことが許せない気持ちになるから不思議だ。明らかに良心のある大人のすることではないな、とヒサシの行動を思った。
不倫は男女ともに非がある。けれど、レナはまだ若く、恋に恋する年頃だ。そんな女の子相手に大人がちょっかいを出していいわけがないのだ。
今日、レナにヒサシとの別れを決意させる。それがアスカのやるべきことだった。依頼の期限を考えても、今日は絶対に失敗が出来ない。アスカは歩きながら、話の持って行き方をもう一度反芻していた。
「あの……アスカさん」
「何?」
「いえ……何でもないです」
レナは何かを言おうとしてやめた。アスカは気になったが、敢えて、深くは訊かなかった。話す必要があることなら、レナが自分で話すだろう。

「仕事はどう?」
アスカは当たり障りのない話題を振る。
「はい。いつも通りです。仕事してる時は仕事のことだけ考えてられるからいいなって」
レナはそう言って苦笑する。アスカといろいろ話をしていくうちに不倫をしているということの苦痛が次第に増しているようだった。
「そう……」
アスカは相槌を打ちながら、角を曲がる。そこにアスカの行きつけの和食屋があった。
「ここよ」
店に入るアスカの後をレナがついていく。店員の「いらっしゃいませ」という落ち着いた声で二人は出迎えられた。

注文した料理がいくつかテーブルに到着し、二人は食事に箸をつけていた。会話は世間話が中心で不倫の核心にはまだ及んでいない。
グラスの飲み物が半分くらいなくなったところで、もうそろそろいいか、と思い、アスカは切り出した。
「さっき言ってた仕事に打ち込んで考えないのが楽……っていうのだけど……。それって、もう恋が終わりに近づいてるってことじゃないかしら」
アスカの言葉にレナの表情が一瞬曇った。

レナは黙ったまま、じっとアスカを見ている。言葉を探している素振りもなかった。ただアスカの言っていることが正しいとその目は言っていた。
「違った?」
アスカは正しいということがわかっていながら、レナに問う。何を考えているのか、レナの口から聞きたかったのだ。
「……終わりに近づいているんだと思います」
レナは小さな声で言った。
アスカはやっぱりわかっているのね、と思ったけれど、それは口には出さなかった。
アスカがレナと接触するようになってわかったのは、レナは賢いということだった。
大抵、不倫をしている場合、我を忘れている場合が多い。その為、客観的に自分や相手を見ることが出来なくなってしまっているのだ。けれど。レナは違った。感情で動いているように見えて、その実、至極冷静に現状を把握していた。
だからこそ、アスカはレナのことが少し不憫でならなかった。冷静さを保っているということは、罪悪感もしっかり感じているということだからだ。

「どうするの?」
アスカは静かに聞いた。
「それは……」
レナは口を開きかけて、言葉に詰まる。
アスカはレナが続きを話し始めるまで何も言う気はなかった。グラスのビールを飲みながら、レナの言葉を待つ。けれど、レナは一向にそれ以上言葉を続ける素振りはなかった。気が付けば、アスカのグラスは空になっていた。
途中、店員がオーダーを取りに来て、まもなく、二杯目のビールが来た。アスカは新しいビールに口をつけて、レナを見る。レナは俯いて、悩んでいるようだった。
「それは……」
アスカはまた同じ言葉を繰り返した。何を戸惑っているのだろう、とアスカは不思議に思う。もしかしたら、助け舟を待っているのではないかと思い、アスカは口を開いた。
「決めてないの? それとも、決めてるけど、言うのが怖い?」
アスカの言葉にレナははっと顔を上げる。
「口に出してしまったら、その通りになってしまいそうで」
レナのその言葉を聞いて、アスカはレナが不倫をやめるのだということを悟った。

シンゴとユウキはアスカとレナに気付かれないように、少し離れた席に座った。格子状の衝立のおかげで、顔を見られる確率は随分と減ったように感じられた。
「開始早々、なんだか深刻そうな雰囲気だね」
シンゴはアスカの目が仕事モードになっているのを見て、溜め息混じりに言う。
「レナは今にも泣き出しそうですね……」
ユウキはレナがアスカに詰問されているのではないかと、心配そうに言った。
「あの……今更なんですけど、訊いてもいいですか?」
「何?」
ユウキは神妙な面持ちでシンゴを見る。
「シンゴさんの奥さんは別れさせ屋で、ターゲットの男と浮気してるんじゃ……って話でしたよね。レナが奥さんと一緒にいるってことは、奥さんが別れさせようとしている男とレナが不倫している、ということですよね……?」
「ああ、その通りだよ」
シンゴは短く答えて、ソフトドリンクに口をつけた。視線はアスカを捉えたままだ。
「ていうことは、レナが不倫している相手と奥さんが浮気している相手は同じ……」
ユウキはひとつひとつの真実を確かめるように言った。

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小説「サークル○サークル」01-304. 「加速」

アスカが「チェックを――」と言いかけたのをヒサシが制する。
「今日は俺がご馳走するよ」
「それじゃあ、遠慮なく」
アスカはそう言って、立ち上がる。
「そうそう、コートはバーのマスターに預けてもらえればいいから」
「ああ、わかった。一週間後には受け取ってもらえるようにしておくよ」
「よろしくね」
アスカはにっこり微笑むと、ヒサシに背を向け、歩き出した。
ドアに向かって歩くアスカのヒールの音が雑音に消えていく。
アスカはドアの取っ手に手をかけた。

シンゴは少し離れた席でアスカとヒサシの会話を全て聞いていた。
“君は一度だって、俺の誘いには乗ってくれなかった”とヒサシはアスカに向かって言っていた。ということは、以前、シンゴが尾行し、ヒサシと一緒にラブホテルに消えていったのは、アスカではないということになる。だったら、あれは一体誰だったのだろう。シンゴは数分のうちにいろんな可能性を探った。そして、アスカの“コートをそろそろ返してもらおうと思って”という言葉で真相に気が付いた。シンゴがアスカだと思っていたあの女性は、アスカのコートを着た別の誰かだったということだ。


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