小説「サークル○サークル」01-284. 「加速」

 アスカが前方を見て、ケータイをしまっている姿が見えた。
「えっ……」
 突然、ユウキが緊張感のある声を出した。驚いて、シンゴはユウキを見る。その顔色はひどく悪かった。
「どうかしたの?」
 心配そうにシンゴがユウキを見ると、彼の顔はみるみるうちに白さを増した。
「シンゴさん……こんなことってあるんですね」
 シンゴはユウキの言っている意味がわからず、眉間に皺を寄せた。
「奥さんの待ち合わせ相手、俺の言ってた女の子です……」
 シンゴは一瞬のうちに目の前が真っ暗になる。これはまずい、と思った。アスカが会っているレナはターゲットの不倫相手であり、そのターゲットとアスカは不倫している。そこにレナのことを想うユウキがいるのだ。ユウキの頭に血が上ってしまえば、修羅場になることは間違いない。勿論、その時点でシンゴがアスカを尾行していたこともバレるだろう。レナにだって、アスカの正体はバレてしまって、泥沼の展開が待ち構えていることは容易に想像出来た。

小説「サークル○サークル」01-283. 「加速」

 もっと時間はゆっくり流れるものだと思っていた。けれど、夜はあっという間にやって来て、シンゴは今、ユウキとともにアスカの後をつけていた。
「こんなことして、本当に大丈夫なんですか……?」
 あれだけ尾行する時は一緒にさせてくれと言っていたユウキだったが、いざその時が訪れると、どうやら落ちつかないようだった。
「バレなければね。まぁ、あまりオススメは出来ないけど」
「俺がもし尾行する時、シンゴさん、ついてきてくれませんか?」
「仕事が修羅場じゃなければ……。一応、考えておくよ」
 シンゴはそれきり黙った。そんなシンゴを見て、ユウキの緊張感は更に高まる。
 アスカは駅ビルの入口でレナを待っているようだった。
 辺りをキョロキョロしたり、ケータイを気にしたりしいている
 シンゴは腕時計を見た。腕時計は十九時の数分前だった。きっとアスカはレナと十九時に待ち合わせをしているのだろう。
「あ、来たみたいです」
 ユウキの声にシンゴは顔を上げた。

小説「サークル○サークル」01-261~01-270「加速」まとめ読み

シンゴは今日ユウキに話すべき内容を頭の中で組み立てる。そして、話していいものなのか、誘っていいものなのか、自問する。答えはすでに決まっていた。だから、シンゴはユウキを公園に誘ったのだ。けれど、その答えに自信が持てずにいた。
そんな時間を過ごしている間に、シンゴの見つめる地面に影が落ちた。ふと顔を上げると、そこにはユウキが立っていた。
「すみません。お待たせしました」
ユウキは少し息を切らしながら、シンゴを見た。
「いや、僕こそ、突然誘ってごめん」
シンゴの言葉を聞き終えると、ユウキは隣に腰を下ろした。
「もしかして、昼ご飯、食べるの待っててくれたんですか?」
「ああ、一緒に食べようと思って」
「ありがとうございます!」
ユウキはシンゴに笑顔を向けた。
シンゴはその笑顔を見て、ユウキを待っていて良かったな、と思う。
二人はほぼ同時にコンビニの袋の中からガサガサと、シンゴは菓子パンを、ユウキはおにぎりを取り出した。

「ところで、今日は何か俺に用があったんですか?」
ユウキは二つ目のおにぎりのセロハンを外しながら言った。
「ああ、そのことなんだけど……」
シンゴはそこまで言って口籠る。本当に自分が言おうとしていることが正しいのか、一瞬躊躇した。
「どうかしました?」
「いや……。実はさ、尾行しようと思ってて」
「奥さんを?」
「ああ、そうなんだ。それで、君も一緒にどうかなって思って。言ってただろう? 尾行する時は連れて行ってほしいって」
「はい」
「まだ君の好きな女の子は不倫しているの?」
「多分……。最近、会ってないから、確かなことはわかりませんけど……」
ユウキは小さな溜め息をついて答える。
「どうする? 一緒に尾行に行ってみる?」
「いいんですか!?」
「ああ、君が実際に彼女を尾行しないで済むような結果になることを願ってるけど」
「俺もそうなればいいとは思ってるんですけど……」
ユウキは浮かない顔で相槌を打つ。そんなユウキを見ながら、シンゴは思わず自分を重ねて見てしまった。

自分もこんな浮かない表情をしているのだろうか、と考えて、シンゴは作り笑いを浮かべた。そして、ユウキを見据える。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「はい!」
ユウキは目を輝かせて、シンゴを見る。
しばらく他愛ない会話を交わし、食事を終えると、シンゴは詳細はメールすると言って、ユウキと別れた。

家に帰ってくると、すでにアスカがいた。
「あ、おかえり。どこ行ってたの?」
「コンビニに……」
「そう……。何も買わなかったの?」
「いや、昼ご飯買ったんだけど、公園で食べて来ちゃった」
「今日、天気いいものね」
ちらりとダイニングテーブルに目を遣ると、キッチンパラソルに入っている食事が目に入った。
「もしかして、これ……」
「シンゴも食べるかなーって思って、作っておいたの」
「ごめん」
「いいの、気にしないで。メールして訊けば良かったんだもの」
アスカはそう言って、苦笑した。
手洗いとうがいを済ませると、シンゴはキッチンパラソルをどけた。

シンゴがキッチンパラソルをどけたのを見て、アスカは驚いた顔をする。
「無理しなくていいよ」
「いや、コンビニの菓子パンだけじゃ足りなくて」
「それならいいんだけど……。温めなくて平気?」
「ああ、このままで平気」
そう言って、シンゴは皿の中をまじまじと見た。皿の中にはエビチャーハンが入っている。
シンゴはちらりとアスカを見た。
アスカはどことなく嬉しそうだ。シンゴはソファの前にあるテーブルにお皿を置き、ソファに腰を下ろした。
「今日はなんでこんなに早く帰って来たの?」
シンゴはスプーンでチャーハンをすくい、口に運びながら訊いた。
「他の案件のチェックもないし、書かなきゃいけない書類も新しい仕事の依頼もなかったから、たまには早く帰って来て、家事でも頑張ろうかなって思って」
アスカは微笑む。
「例の件は順調なの?」
「ええ。明日の夜、不倫相手と飲みに行くことになったの」
「飲みに?」
「これでもっと不倫について詳しい話が聞けると思うわ」
「それじゃあ、別れさせられるのもあとちょっとってこと?」
シンゴはチャーハンを食べる手を止めて、アスカを見た。

アスカはしばらく悩んだ後、口を開く。
「そうね……。ターゲットと接触したけど、あの男をどうこうっていうのは無理だと思うの。だから、あの女の子を別れさせたいって思うような方向に持って行きたいんだけど……。今回の飲みで畳みかけるつもりではいるわ」
「そうなんだ……」
シンゴはぽつりとつぶやくように応えると、チャーハンを立て続けに口に運んだ。
「ターゲットには会わないの?」
「そうね……。状況次第ね。明日、あの女の子と別れてから、バイトしてたバーに行って、接触するのもアリかな……とは思ってる」
「今日じゃないんだ?」
「えぇ、不倫相手の状況を詳細に確認してから、ターゲットに接触して、有効な方法を取った方がいいかな……とは思ってるわ」
シンゴはアスカを尾行するなら、明日の夜だと思った。
仕事としてアスカは接触すると言っている。それは、万が一、アスカが帰って来なくてもシンゴに怪しまれない為だろう。
シンゴは次第に自分の鼓動が速まっていくのを感じていた。それは緊張から来る動悸だった。

昨日はなかなか眠れなかった。翌日、アスカを尾行すると決めていたからだ。
シンゴは目をこすりながら、ベッドから抜け出す。アスカはすでに寝室にはいなかった。
「おはよう」
寝室から出ると、エプロン姿のアスカがキッチンから顔をのぞかせて言う。
「おはよう……」
まだぼんやりとする頭のまま、シンゴは答えた。
アスカは機嫌が良い。その事実がシンゴの胸をざわつかせた。
きっとあの男に会いに行くに違いない――。
シンゴはそう思った。だからこそ、アスカはこんなにも楽しげに朝からキッチンに立っているのだ。夫であるシンゴに朝食を作るのも、せめてもの罪滅ぼしに見えた。
シンゴは顔を洗うと、Tシャツとスウェットのまま、ダイニングテーブルにつく。ぼんやりとアスカの横顔を眺めていた。
「もうすぐ出来るから」
アスカの声だけが聞こえたが、シンゴは答えなかった。
しばらくすると、ふわふわの卵焼きが乗ったトーストとサラダ、コーンスープとホットコーヒーがシンゴの前に並べられた。
アスカも自分の分を並べて、席につく。
シンゴとアスカは一瞬、顔を見合わせ、「いただきます」と口にした。

「今日は随分と朝早いんだね」
シンゴはコーンスープを一口飲んで言う。
「ええ。今日はカフェには行かずに、飲み会の前に事務所寄るだけにしようと思って」
「仕事は大丈夫なの?」
「特に案件の進捗もないし、大丈夫よ。たまには家事をやる日も作らないと。今日は洗濯もアイロンかけもバッチリやってから、出掛けるわ」
アスカは言いながら、トーストに手を伸ばした。
アスカのトーストには卵とトーストの間にケチャップが塗られている。ケチャップの赤い色がちらりと見えて、アスカがケチャップ派だということを思い出していた。シンゴのトーストにはマヨネーズが塗られている。
サラダとトーストを交互に食べながら、シンゴはアスカに気付かれないようにアスカのことを何度もちらちらと観た。
アスカの様子はいつもと同じだ。キッチンに立っていた時のようなウキウキした感じは見受けられなかった。もしかしたら、浮かれている自分にはっとして、いつも通り振る舞っているのかもしれない。
シンゴはコーンスープを飲み干して、空になったマグカップの底をしばらくの間、見つめていた。

「どうしたの? 難しい顔して。カップの底に何か書いてある?」
アスカは笑いながら、シンゴを見る。
「いや……」
シンゴは気の利いた言葉も思いつけないまま、アスカの言葉に曖昧な相槌を打った。
「シンゴは仕事は順調? 小説はだいぶ書き終わったの?」
「順調だけど、まだ半分くらいかな。あと二週間くらいで書き終わると思うけど」
「随分、早いのね」
「書き出しさえ決まってしまえば、大して苦労はしないんだよ」
「そういうものなのね。私には未知の世界だわ。でも……シンゴが今書いてる小説がすごく楽しみなの」
ろくに本も読まないアスカが自分の本を楽しみにしてくれている、という言葉を聞いて、シンゴは心底驚いた。けれど、シンゴは驚いたことを悟られないように表情を動かさないように努める。
「ありがとう。頑張るよ」
口ではそう言ったが、内心、ああ、やっぱり、とシンゴは溜め息をついていた。浮気をしている罪悪感から、きっとアスカはこんなことを口にしているのだ。

シンゴは「おいしいね」と言いながら、朝食を食べていたけれど、考え事の所為でいまいち味はよくわからなかった。
「こういう時間って大切よね」
「えっ……?」
「二人で一緒に朝食をとる時間。穏やかで、一日の始まりに必要な時間だなって思って」
アスカは微笑む。シンゴも一拍遅れて、微笑んだ。アスカからそんな言葉が発せられるなどと思いもしなかったのだ。
「結婚してから、こういう時間、取って来なかったもんね」
「えぇ……。夫婦らしい夫婦ではなかったわよね……」
アスカはそう言って、少し遠い目をした。
シンゴは嫌な予感がした。
これではまるで別れ話の前振りのようではないか。こうやって、今までの自分たちを振り返り、もっとあの時こうしておけば良かったと口にするのだろう。
シンゴは速くなっていく鼓動から意識を反らせようと、コーヒーを喉に流し込んだ。冷めてしまい、生ぬるくなったコーヒーはシンゴの空しさを増幅させていく。
シンゴの目の前にいるアスカはトーストの最後の一口を今まさに食べようとしていた。

「ごちそうさま」
シンゴはアスカが食べ終わったのを見計らい、食器を持って席を立とうとする。
「いいよ、置いておいて。私が片付けるから」
「でも……」
「言ったでしょう? 今日は家事をバッチリするって」
アスカはシンゴの手から皿を取ると、シンクへと持って行く。
「……」
シンゴは黙ったまま、アスカの後ろ姿を見据えた。
全てのことが別れの兆候にしか思えず、嫌な考えしか浮かばない。
シンゴはアスカに気付かれないように溜め息をつくと、ソファに腰をかけた。
すぐに書斎に行くのは気が引けたし、かと言って、ダイニングテーブルにいるのも違和感がある。
テレビの電源ボタンを押すと、見慣れた朝の情報番組がついた。テレビには馴染みのキャスターが映し出され、昨日起きた事件の新たな情報が次々と流れてくる。シンゴにもそのニュースが聞こえてきてはいたけれど、耳には入ってこなかった。移ろう画面を目が的確に追いかけていくだけだった。
今日の朝からシンゴはずっと上の空だった。

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小説「サークル○サークル」01-251~01-260「加速」まとめ読み

――“出会うのが遅かっただけ”
不倫を正当化するのによく使われるフレーズだ。
確かにそういうこともあるかもしれない。だとしても、やはり、きちんと離婚してから、向き合うべきだとシンゴは思う。そうでなければ、先に結婚した方がバカみたいではないか。
そして、奪われれば執着する。去られるよりもずっと。
シンゴはそこまで考えて、自分の考えを鼻で笑った。
自分がアスカに別れを切り出さないのは、アスカを愛しているからという理由が一番ではない。誰かに取られようとしているからだ、と気が付いたのだ。奪われそうになると惜しくなる。奪われるくらいなら、手放したくない。人間の人を愛するという思考はもしかしたらその程度なのかもしれない。
そんなことを考えながら、シンゴは尾行していた時に見たアスカとターゲットの姿を思い出していた。
あの二人は今、どんな関係でいるのだろう。
不倫をしているのだろうか。それとも、やはりアスカの仕事の邪魔になるから別れたのだろうか。それとも、何度か関係を重ねただけだろうか。
シンゴは色々な可能性を考えた後、考えるのをやめた。
溜め息をつき、気持ちをリセットすると、シンゴは再び文字を打ち始めた。

記憶は時に邪魔になる。忘れたいことですら、心の中のどこかに残っていて、ふいに過っては感情を逆撫でていく。
記憶は感情と直結しているのだということを意識するのはそういう時だ。
そして、それは小説を書いている時によく訪れる。
その度にシンゴは溜め息をついた。
イライラしたり、落ち込んだり、そういう自分に呆れてしまう。
記憶に対して一喜一憂するのはナンセンスだし、振り回される自分の弱さにもうんざりする。
シンゴはタイプする手を止めて、椅子にもたれた。椅子は軋み、少しだけ後ろにたわんだ。
少し離れたところから、パソコンの画面を見つめると、真っ白な画面に並んだ黒い文字が何かの模様に見えた。自分が書かなければ、画面は白いままだ。白い画面の上に自分が紡ぎ出す言葉が意味をなしていくのは、なんとも言えない喜びだった。
けれど、その喜びの為に自分は過去の出来事にもう一度傷ついたり、悩んだりしている。
その矛盾にシンゴは再び大きな溜め息をついた。
今日はあまり仕事が進まないらしい。
きっとアスカとターゲットのことが頭をもたげている所為だ。
シンゴはパソコンを閉めると、席を立った。

朝は規則正しくやってきて、シンゴの眠りを妨げた。窓の隙間から入ってくる朝陽にシンゴは目を細め、むくりと起き上がる。すでにアスカの姿はなかった。
リビングへ行くと、テーブルの上に朝食が用意されていた。こんなことは初めてで、シンゴは思わず二度見する。
キッチンパラソルの横にはメモが置いてあった。
“おはよう。仕事に行ってきます。朝ご飯作ったから食べてね。お味噌汁とご飯は自分で入れて下さい”
端正な字で書かれた文字をシンゴは二度読んだ。なんだか、メモに書かれていることが信じられなかったのだ。
そっとキッチンパラソルを開けると、そこには焼き鮭と小松菜のおひたしがあった。箸置きに置かれた箸の横には、味噌汁を入れる器と茶碗も伏せて置いてある。
シンゴはキッチンパラソルを元に戻すと、顔を洗いに洗面所へと向かった。
顔を冷たい水で洗い、鏡に映る自分を見て、溜め息をつく。冴えない顔だな、と思った。
そそくさと洗面所を後にすると、シンゴはキッチンパラソルの中から、味噌汁を入れる器と茶碗を取り出した。味噌汁の入った鍋を火にかけ、その間に茶碗にご飯をよそう。
味噌汁が温まったのを確認すると、シンゴは器に入れ、席へと着いた。

穏やかな朝だった。
アスカの焼いてくれた鮭は美味しかったし、小松菜のおひたしもほっとする味だった。
こうして、自分の幸せが少しずつ形成されていくに従って、シンゴはこの幸せがいかに不安定なものなのかを考えた。
アスカとターゲットが続いていれば、この幸せはいずれあっという間に姿を消してしまうだろう。
こんなにも落ち着かない気持ちでいるのは、精神衛生上良くないな、と味噌汁を啜りながらシンゴは思う。
だったら、一層のこと、アスカのケータイを見てしまおうか、とも考える。そうすれば、白か黒かはっきりして、このもやのかかったような生活とはさよなら出来る。
白であれば平穏に、しかし、黒であれば、地獄が待っているような気さえした。
シンゴは思い悩む。ふとシュレディンガーの猫の話を思い出した。
箱の中に猫が入っている。開ける前は猫が生きているのか死んでいるのか、確率は50/50(フィフティー・フィフティー)だ。けれど、箱を開けてしまえば、0か100しかない。
今の状況はそれに似ているとシンゴは思った。

アスカのケータイを見て、ターゲットとのやりとりがあれば浮気は継続されていることになる。けれど、ターゲットとのやりとりがなければ恐らく浮気は終わりを告げているだろう。
そこまで考えて、シンゴは「いや、待てよ」と思った。
アスカは仕事柄、用心深いに違いない。きっと、彼女はメールのやりとりをしていたとしても、その履歴が残らないように削除するはずだ。そして、削除したことを悟られないようメール数に違和感がないように細工をするに違いない。
シンゴはかぶりを振った。
そんなことを考えていても、何もいいことなどないのだ。
けれど、考えずにはいられない。
アスカとターゲットとの関係を知りたくて仕方がなかった。
それは嫉妬から来るものなのか、それとも、自分の平穏な生活や幸せを脅かされることに対する不安から来るものなのか、シンゴにはよくわからなかった。
しばらく考えた後、やっぱり……、とシンゴは思う。
このもやもやを解消する為にはアスカと向き合う必要があるのだ。
アスカの帰りはいつも通り早かった。最近は夕飯の時間には帰ってくる。食材を買ってきて、すぐに夕飯の支度をするアスカは甲斐甲斐しい妻の姿に見えた。
しかし、シンゴは手放しで喜べない。そこには裏があるような気がしてならなかったからだ。
疑惑はやがて確執へと変わってしまう。
シンゴはその前に何か手を打たなければと思った。
アスカが浮気をしていたという事実は許せない。けれど、一度きりの過ちならば――、何度か繰り返されていたのだとしても、今はもう終わっているのだとしたら、シンゴは許せるかもしれない、とも思う。
結局のところ、自分のところに戻って来るなら、それでいい、ということなのかもしれない。
真相はまだわからない。けれど、そろそろ、真相を明らかにするべき時期に来ているのでは、と思っていた。
自分の中で渦巻く感情を持て余しながら、シンゴはキッチンで忙しなく料理に勤しむアスカの姿を見つめていた。
この姿に嘘がなければいいな、と思いながら――。

アスカはキッチンで料理をしながら、束の間の休息を楽しんでいた。
仕事から解き放たれる家で過ごす時間は、今のアスカにとって唯一ほっと出来る時間だった。
今日の夕飯は肉じゃがだ。
野菜を切って、煮込み始めると肉じゃがの匂いが鼻先をかすめた。
キッチンからリビングのソファを見ると、シンゴがくつろいでいる。
何か思い詰めた顔をしているけれど、きっと小説のことを考えているのだろう、とアスカは敢えて声をかけなかった。
シンゴは優しい。
夕飯を作ると言ったアスカに僕がやるよ、と言ってくれた。
確かに一時期、ヒサシに心を奪われていたけれど、今はヒサシと関係を持たなくて良かったと思っている。ヒサシと関係を持ってしまっていたら、シンゴに申し訳ない気持ちが勝ってしまって、きっと今一緒にいることは出来なかっただろう。
浮気なんて一時期の気の迷いだ、ということをアスカは痛感していた。
アスカは肉じゃがと味噌汁が出来上がり、シンゴの名前を呼ぶ。
はっとして笑顔で食卓テーブルにやってくるシンゴを見て、アスカは幸せを感じていた。

シンゴが食卓に来て、アスカは微笑んだ。
「お待たせ」
「いい匂いがしてたから、お腹空いちゃったよ」
シンゴも心とは裏腹に微笑んだ。
アスカには訊きたいことが山ほどあった。けれど、今、それを口に出すことは出来ない。
シンゴは「おいしいね」と言って、肉じゃがを口に運ぶ。
アスカは何も気が付いていない。それがシンゴにとっては遣る瀬無かった。
「仕事はどうなの? 順調?」
前にも訊いたな、と思いながら、シンゴは口にする。
「順調よ。相変わらず。毎朝、カフェに通ってる。あともう一度くらい食事に行けば、もっと彼女とターゲットに近づけるんじゃないかなぁ」
アスカはそう言うと、味噌汁に手を伸ばした。
「じゃあ、そろそろ、今回の案件は片付きそう」
「そうね。時間的な制約もあるし、そろそろ終わらせないとまずいわね」
「早く今回の仕事が終わるといいね」
「頑張るわ」
アスカの微笑みを見て、シンゴはそれ以上何も言わなかった。
アスカに色々訊くのはこの案件が終わってからでいい、とシンゴは思っていた。それまでに自分がやらなければならないことはたった一つだけだった。

「いらっしゃいませー」
自動ドアをくぐると、気持ちの良い挨拶が聞こえてきた。レジにふと目を遣れば、そこにはユウキがいる。シンゴは適当に菓子パンと紙パックのコーヒーを手に取ると、レジに向かった。
「いらっしゃいませ。ストローはおつけになりますよね」
「ああ」
ユウキに言われて、シンゴは頷いた。
「最近、シンゴさん来てくれないから心配してたんです」
「心配?」
「だって、ほら、奥さんのこととかで何かあったのかなって」
「ああ……そのことなんだけど……」
「はい……?」
「今日、何時に終わる?」
「あと10分ほどで」
「じゃあ、いつもの公園で待ってる」
「わかりました」
ユウキはレジの後ろに別の客が並んだのを確認すると、手際良く、会計をした。
シンゴは商品とおつりを受け取ると、ユウキといつも会っている公園へと向かう。
のんびりと歩きながら、穏やかな景色に視線を漂わせた。
自分以外の人はいつだって、幸せそうに見えることにシンゴはもやもやした気持ちを抱えていた。

勿論、シンゴだって、傍から見れば幸せそうに見えていることに変わりはない。
仕事があり、住むところがあり、結婚もして奥さんとは大きなケンカもない。
けれど、それは表面上のことであって、シンゴの内面は不幸せだという気持ちでいっぱいなのだ。人の心の奥底まではわからないな、と自分のことと照らし合わせながら、シンゴは思う。
結婚して奥さんはいる。けれど、その奥さんが浮気しているかもしれない。それは決して幸せとは言い難い。
シンゴはいつものベンチに腰を下ろすと、芝生に視線を向けた。今日は芝生には誰もいない。
犬も飼い主も、無邪気に遊ぶ子どもの姿もそこにはなかった。
ただただ目の前に広がる芝生を見つめながら、シンゴはユウキが来るのを待った。
ケータイをパンツのポケットから取り出し、時間を確認する。
身支度をして、公園まで来るとなると、あと十五分くらいはかかりそうだな、と思いながら、シンゴはケータイをポケットにしまった。
袋の中には紙パックのコーヒーと菓子パンがある。
お腹は空いていたけれど、ユウキが来るまで待っていようと思った。きっとユウキが逆の立場なら、そうしてくれるだろう、と思ったからだ。それに一緒に食べる方が一人で食べるよりはいくらか美味しく感じられるだろうとも思った。

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小説「サークル○サークル」01-282. 「加速」

 ただ相手の男がなんのペナルティもなしに生活を続けていくことが我慢ならなかったのだ。復讐と言っても過言ではない。そういった気持ちがシンゴの中に沸々と芽生え始めていた。
 電気ケトルが湯を沸かし終えたことを知らせると、シンゴはドリップコーヒーを淹れる。全てのお湯がマグカップに落ちると、マグカップを持って、再び、ソファに腰を下ろした。
 ワイドショーはまだゴシップを流している。
 表示されている時間に目を遣り、シンゴはケータイを取り出した。
 ユウキのアドレスに待ち合わせ時間を送ると、コーヒーに口をつけた。
 程よい苦さを伴って、コーヒーはシンゴの喉をゆっくりと流れていく。
 今日が勝負だ、とシンゴは思った。
 今日、動かぬ証拠を捕まえて、アスカに話をするつもりだった。そうして、このもやもやした日々にピリオドを打とうと考えていた。
 いつかはアスカが帰って来てくれる。そう思ってはいたけれど、今日のアスカの涙を浮かべたあの言葉で、揺らいでいたシンゴの気持ちは確かなものへとなってしまった。
 壊れたものは二度と元には戻らない。
 そうシンゴは確信していた。


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