小説「サークル○サークル」01-271. 「加速」

アスカは食器を洗いながら、テレビを観ているシンゴをキッチンからちらりと見る。
シンゴは難しい顔をして、テレビの画面を凝視していた。
そんなに嫌なニュースでも流れているんだろうか、と思ったが、ふとアスカはシンゴが仕事で悩んでいるのかもしれない、と思った。
シンゴは今までろくに小説を書いていなかった。アスカの前では?にも出さないが、ブランクがある分、本当は書くのが辛いのかもしれない。
アスカは放っておくのがいいのか、それとも、そのことについて声をかけた方がいいのかを悩む。
どうしよう……と思っていた矢先、手から皿が滑り落ちた。
アスカが「あ、」と思った時には甲高い音がして、皿が割れた。
慌てて水を止めて、皿の破片を拾い集めようとする。
「大丈夫?」
声がして振り向くと、アスカの背後にはいつの間にかシンゴがやって来ていた。
「大丈夫。ちょっと手が滑って、お皿が割れちゃっただけだから」
アスカはそう言って、破片に手を伸ばした。
「っ……」
急いでいた所為で、アスカは指を切る。あっという間に赤い血が滴った。

小説「サークル○サークル」01-270. 「加速」

「ごちそうさま」
シンゴはアスカが食べ終わったのを見計らい、食器を持って席を立とうとする。
「いいよ、置いておいて。私が片付けるから」
「でも……」
「言ったでしょう? 今日は家事をバッチリするって」
アスカはシンゴの手から皿を取ると、シンクへと持って行く。
「……」
シンゴは黙ったまま、アスカの後ろ姿を見据えた。
全てのことが別れの兆候にしか思えず、嫌な考えしか浮かばない。
シンゴはアスカに気付かれないように溜め息をつくと、ソファに腰をかけた。
すぐに書斎に行くのは気が引けたし、かと言って、ダイニングテーブルにいるのも違和感がある。
テレビの電源ボタンを押すと、見慣れた朝の情報番組がついた。テレビには馴染みのキャスターが映し出され、昨日起きた事件の新たな情報が次々と流れてくる。シンゴにもそのニュースが聞こえてきてはいたけれど、耳には入ってこなかった。移ろう画面を目が的確に追いかけていくだけだった。
今日の朝からシンゴはずっと上の空だった。

小説「サークル○サークル」01-269. 「加速」

シンゴは「おいしいね」と言いながら、朝食を食べていたけれど、考え事の所為でいまいち味はよくわからなかった。
「こういう時間って大切よね」
「えっ……?」
「二人で一緒に朝食をとる時間。穏やかで、一日の始まりに必要な時間だなって思って」
アスカは微笑む。シンゴも一拍遅れて、微笑んだ。アスカからそんな言葉が発せられるなどと思いもしなかったのだ。
「結婚してから、こういう時間、取って来なかったもんね」
「えぇ……。夫婦らしい夫婦ではなかったわよね……」
アスカはそう言って、少し遠い目をした。
シンゴは嫌な予感がした。
これではまるで別れ話の前振りのようではないか。こうやって、今までの自分たちを振り返り、もっとあの時こうしておけば良かったと口にするのだろう。
シンゴは速くなっていく鼓動から意識を反らせようと、コーヒーを喉に流し込んだ。冷めてしまい、生ぬるくなったコーヒーはシンゴの空しさを増幅させていく。
シンゴの目の前にいるアスカはトーストの最後の一口を今まさに食べようとしていた。

小説「サークル○サークル」01-268. 「加速」

「どうしたの? 難しい顔して。カップの底に何か書いてある?」
アスカは笑いながら、シンゴを見る。
「いや……」
シンゴは気の利いた言葉も思いつけないまま、アスカの言葉に曖昧な相槌を打った。
「シンゴは仕事は順調? 小説はだいぶ書き終わったの?」
「順調だけど、まだ半分くらいかな。あと二週間くらいで書き終わると思うけど」
「随分、早いのね」
「書き出しさえ決まってしまえば、大して苦労はしないんだよ」
「そういうものなのね。私には未知の世界だわ。でも……シンゴが今書いてる小説がすごく楽しみなの」
ろくに本も読まないアスカが自分の本を楽しみにしてくれている、という言葉を聞いて、シンゴは心底驚いた。けれど、シンゴは驚いたことを悟られないように表情を動かさないように努める。
「ありがとう。頑張るよ」
口ではそう言ったが、内心、ああ、やっぱり、とシンゴは溜め息をついていた。浮気をしている罪悪感から、きっとアスカはこんなことを口にしているのだ。

小説「サークル○サークル」01-267. 「加速」

「今日は随分と朝早いんだね」
シンゴはコーンスープを一口飲んで言う。
「ええ。今日はカフェには行かずに、飲み会の前に事務所寄るだけにしようと思って」
「仕事は大丈夫なの?」
「特に案件の進捗もないし、大丈夫よ。たまには家事をやる日も作らないと。今日は洗濯もアイロンかけもバッチリやってから、出掛けるわ」
アスカは言いながら、トーストに手を伸ばした。
アスカのトーストには卵とトーストの間にケチャップが塗られている。ケチャップの赤い色がちらりと見えて、アスカがケチャップ派だということを思い出していた。シンゴのトーストにはマヨネーズが塗られている。
サラダとトーストを交互に食べながら、シンゴはアスカに気付かれないようにアスカのことを何度もちらちらと観た。
アスカの様子はいつもと同じだ。キッチンに立っていた時のようなウキウキした感じは見受けられなかった。もしかしたら、浮かれている自分にはっとして、いつも通り振る舞っているのかもしれない。
シンゴはコーンスープを飲み干して、空になったマグカップの底をしばらくの間、見つめていた。


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