小説「サークル○サークル」01-256. 「加速」

アスカの帰りはいつも通り早かった。最近は夕飯の時間には帰ってくる。食材を買ってきて、すぐに夕飯の支度をするアスカは甲斐甲斐しい妻の姿に見えた。
しかし、シンゴは手放しで喜べない。そこには裏があるような気がしてならなかったからだ。
疑惑はやがて確執へと変わってしまう。
シンゴはその前に何か手を打たなければと思った。
アスカが浮気をしていたという事実は許せない。けれど、一度きりの過ちならば――、何度か繰り返されていたのだとしても、今はもう終わっているのだとしたら、シンゴは許せるかもしれない、とも思う。
結局のところ、自分のところに戻って来るなら、それでいい、ということなのかもしれない。
真相はまだわからない。けれど、そろそろ、真相を明らかにするべき時期に来ているのでは、と思っていた。
自分の中で渦巻く感情を持て余しながら、シンゴはキッチンで忙しなく料理に勤しむアスカの姿を見つめていた。
この姿に嘘がなければいいな、と思いながら――。

小説「サークル○サークル」01-255. 「加速」

アスカのケータイを見て、ターゲットとのやりとりがあれば浮気は継続されていることになる。けれど、ターゲットとのやりとりがなければ恐らく浮気は終わりを告げているだろう。
そこまで考えて、シンゴは「いや、待てよ」と思った。
アスカは仕事柄、用心深いに違いない。きっと、彼女はメールのやりとりをしていたとしても、その履歴が残らないように削除するはずだ。そして、削除したことを悟られないようメール数に違和感がないように細工をするに違いない。
シンゴはかぶりを振った。
そんなことを考えていても、何もいいことなどないのだ。
けれど、考えずにはいられない。
アスカとターゲットとの関係を知りたくて仕方がなかった。
それは嫉妬から来るものなのか、それとも、自分の平穏な生活や幸せを脅かされることに対する不安から来るものなのか、シンゴにはよくわからなかった。
しばらく考えた後、やっぱり……、とシンゴは思う。
このもやもやを解消する為にはアスカと向き合う必要があるのだ。

小説「サークル○サークル」01-254. 「加速」

穏やかな朝だった。
アスカの焼いてくれた鮭は美味しかったし、小松菜のおひたしもほっとする味だった。
こうして、自分の幸せが少しずつ形成されていくに従って、シンゴはこの幸せがいかに不安定なものなのかを考えた。
アスカとターゲットが続いていれば、この幸せはいずれあっという間に姿を消してしまうだろう。
こんなにも落ち着かない気持ちでいるのは、精神衛生上良くないな、と味噌汁を啜りながらシンゴは思う。
だったら、一層のこと、アスカのケータイを見てしまおうか、とも考える。そうすれば、白か黒かはっきりして、このもやのかかったような生活とはさよなら出来る。
白であれば平穏に、しかし、黒であれば、地獄が待っているような気さえした。
シンゴは思い悩む。ふとシュレディンガーの猫の話を思い出した。
箱の中に猫が入っている。開ける前は猫が生きているのか死んでいるのか、確率は50/50(フィフティー・フィフティー)だ。けれど、箱を開けてしまえば、0か100しかない。
今の状況はそれに似ているとシンゴは思った。

小説「サークル○サークル」01-253. 「加速」

朝は規則正しくやってきて、シンゴの眠りを妨げた。窓の隙間から入ってくる朝陽にシンゴは目を細め、むくりと起き上がる。すでにアスカの姿はなかった。
リビングへ行くと、テーブルの上に朝食が用意されていた。こんなことは初めてで、シンゴは思わず二度見する。
キッチンパラソルの横にはメモが置いてあった。
“おはよう。仕事に行ってきます。朝ご飯作ったから食べてね。お味噌汁とご飯は自分で入れて下さい”
端正な字で書かれた文字をシンゴは二度読んだ。なんだか、メモに書かれていることが信じられなかったのだ。
そっとキッチンパラソルを開けると、そこには焼き鮭と小松菜のおひたしがあった。箸置きに置かれた箸の横には、味噌汁を入れる器と茶碗も伏せて置いてある。
シンゴはキッチンパラソルを元に戻すと、顔を洗いに洗面所へと向かった。
顔を冷たい水で洗い、鏡に映る自分を見て、溜め息をつく。冴えない顔だな、と思った。
そそくさと洗面所を後にすると、シンゴはキッチンパラソルの中から、味噌汁を入れる器と茶碗を取り出した。味噌汁の入った鍋を火にかけ、その間に茶碗にご飯をよそう。
味噌汁が温まったのを確認すると、シンゴは器に入れ、席へと着いた。

小説「サークル○サークル」01-252. 「加速」

記憶は時に邪魔になる。忘れたいことですら、心の中のどこかに残っていて、ふいに過っては感情を逆撫でていく。
記憶は感情と直結しているのだということを意識するのはそういう時だ。
そして、それは小説を書いている時によく訪れる。
その度にシンゴは溜め息をついた。
イライラしたり、落ち込んだり、そういう自分に呆れてしまう。
記憶に対して一喜一憂するのはナンセンスだし、振り回される自分の弱さにもうんざりする。
シンゴはタイプする手を止めて、椅子にもたれた。椅子は軋み、少しだけ後ろにたわんだ。
少し離れたところから、パソコンの画面を見つめると、真っ白な画面に並んだ黒い文字が何かの模様に見えた。自分が書かなければ、画面は白いままだ。白い画面の上に自分が紡ぎ出す言葉が意味をなしていくのは、なんとも言えない喜びだった。
けれど、その喜びの為に自分は過去の出来事にもう一度傷ついたり、悩んだりしている。
その矛盾にシンゴは再び大きな溜め息をついた。
今日はあまり仕事が進まないらしい。
きっとアスカとターゲットのことが頭をもたげている所為だ。
シンゴはパソコンを閉めると、席を立った。


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