小説「サークル○サークル」01-344. 「加速」

夜遅く、アスカは家に帰って来た。終電はすでに終わっていたので、タクシーで最寄駅まで帰ってくると、そこからのんびりと家まで歩いた。タクシーで家まで帰る気にはなれなかった。
夜道は暗いし、風は冷たい。それでも、歩くのを選んだのにはわけがあった。
アスカ自身、まだ頭の中が整理しきれず、一人でゆっくり考えたかったのだ。
依頼者のマキコが自分に妊娠していると嘘をついていたこと、ヒサシにとって、レナは一番愛している女ではないこと。
マキコにしても、ヒサシにしても、アスカにとっては、どっちもどっちに見えて仕方なかった。
そもそも、結婚なんしてしなければ良かったような二人なのだ。そんな二人が結婚してしまったから、別れさせ屋に依頼をしなければならなくなってしまったのだと思う。
不倫をしている女性を擁護するつもりはなかったけれど、アスカにはレナが不憫に思えてならなかった。
ヒサシと接すれば接する程、大人の男性のずるさが見える。レナの純粋さにヒサシが漬け込んでいるように、アスカには見えていた。

小説「サークル○サークル」01-343. 「加速」

「それじゃあ、私はこれで」
そう言って、アスカは財布から千円を抜くと、テーブルの上に置く。
「もう一杯付き合ってはくれないんだね」
「付き合う理由はないわ。それから……」
「何?」
「依頼者があなたの女だと、考えたことはなくって?」
アスカの去り際の一言に、ヒサシの表情が一瞬だけ曇った。
アスカはヒサシに背を向けると、バーを後にした。
背後に懐かしいドアベルと、それに少し遅れてドアが閉まるがちゃりという音が聞こえると、アスカは溜め息をついた。
バーの前で立ち止まり、足元を見つめる。すぐにこの場を立ち去りたいはずなのに、しばらくは動けそうもなかった。
覚悟はしていた。
覚悟はしていたはずなのに、自分の置かれている状況を目の当たりにして、アスカは戸惑っていた。
ここからどうやって、持ち直せば良いのかがわからないのだ。
何より、ヒサシのあの言葉がアスカの中で引っかかっていた。
“いないよ。ここ、一年くらい関係も持ってないから、出来ることもない”――と。

小説「サークル○サークル」01-342. 「加速」

「そりゃそうでしょう。あなたが男は浮気をするものだというんだったら、浮気相手にされている女ほど、惨めなものはないわ。不倫だとしても、本命であるなら、また話は違うけれど、今回なんて、浮気相手の中でも一番じゃないなんて。あなたと付き合ってる時間は彼女にとって、無駄だと思うけど」
「人生に無駄なことなんてないと思うけどなぁ」
「それは一般論よ。女の二十代は人生の中で一番尊いのよ。そんなこともわからずに、あんな若い子と付き合ってるわけ?」
「若いいい時間を費やしたんだから、責任取れってヤツ?」
「そうよ。責任取れないなら、手を出すなってこと」
「どうして、そんなにもレナと別れさせたい? 仕事だからか?」
「仕事だからっていうのも、勿論あるわ。でも、あの子がいい子だからよ」
「レナが?」
「そう。あなたの奥さんに対してもちゃんと罪悪感を持って、あなたと付き合ってたわ。いずれ、別れなきゃいけないと思ってるとも。いい機会だと思わない? 後腐れなく別れられるわよ。女から言い出す別れなんだから」
「……考えておくよ」
ヒサシの返事を聞いて、アスカは残っていたモヒートを一気に流し込んで、コースターの上にとんっとグラスを置いた。

小説「サークル○サークル」01-341. 「加速」

「じゃあ、レナさんがあなたの元から去るのは別に問題ないんじゃない?」
「それとこれとは話が別だ」
一体、どう別なんだろう、とアスカは思ったが、何も言わず、ヒサシの話の続きを聞くことにした。
「レナは若くて可愛い。そばに置いておきたいと思うのは自然な気持ちだと思う。彼女が俺よりも好きな人が出来たとか、俺にほとほと愛想が尽きたというのなら、引き留めはしないけど、別れさせ屋の君にそそのかされて、別れたいというのは、“はい、そうですか”とは言えないね」
「そそのかすだなんて、人聞きの悪い。私の仕事よ」
「失礼。でも、俺の気持ちはそういうことさ。彼女が自分で考え、決めたことならいつだって歓迎するよ」
「あのくらいの年頃は、周りに流されやすいのよ。でも、彼女の今回の判断は懸命だと思うわ」
「それは君からしたら、だろ?」
「ええ、女の私からしたらね」
「性別で来たか」
ヒサシは溜め息をつき、酒を煽ると、マスターにもう一杯同じものを注文した。注文したドリンクが運ばれてくるのを見計らって、アスカが口を開いた。

小説「サークル○サークル」01-340. 「加速」

「本当に選ぶべきはレナさんだったと?」
「いや、違う」
「最低」
「最低なことは、俺をずっと見てた君なら、とっくに気が付いていると思ってたけど」
「そうね。気が付いてたわ。でも、言わずにはいられない程、最低だと思ったのよ」
「そう思われても仕方ないだろうね。さっきも言っただろう? 付き合っているのは四人いるって」
「ええ」
「君がコートを汚してしまったあの女性がしいて言えば、本命ってところかな」
「彼女は自分以外に三人いることは知っているの?」
「知るわけないだろう? 知ってたら、付き合うわけがない。男は浮気する生き物だからなんてカッコつけて、浮気は平気なんて言う女は沢山いるが、心の底から許している女なんていやしないんだよ」
「そして、不倫をしている女は自分が一番愛されている、と思い込む」
「その通り。奥さんよりも愛されている、と勘違いしている。でも、まぁ、俺の場合は、少なくとも妻よりは愛してるけどね」
ヒサシの言っていることは、きっと多くの男の本音なのだろう。けれど、本音だからと言って、正しいと認めることは出来ない。ただこんなにストレートに言われてしまっては、否定のしようがなかった。
彼は嘘をついているわけではないのだ。事実を述べているだけなのだ。


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