小説「サークル○サークル」01-157. 「加速」

 アスカは目の前の書類に何度も目を通す。次に自分がしなければならないことは、ただ一つ。レナとの接触だ。接触して、ヒサシとの不倫をやめさせる方向へともっていかなければならない。ヒサシの行動パターンや性格はある程度把握している。その情報を元にレナにどのようなアプローチをかけるかを随時判断するのだ。ここが一番の山場だと言える。
 レナが不倫をしていることをどう思っているのかによっても、別れさせる方法は異なってくる。大概の場合、浮気相手は不倫を悪いことだとあまり思っていないことが多い。不倫をしている女の多くは、奥さんと彼氏が別れることを願っているのだ。奪えるものならすぐにでも奪いたい、そうと思っているのが大半だ。
 けれど、時に罪悪感に苛まれながら、不倫をしている女もいる。ごく少数と言っていいが、そういった女の場合、前者よりもいくらか簡単に別れさせることが出来る。
「どうするかなぁ……」
 アスカは煙草の吸殻を灰皿に押しつけて、溜め息をつく。彼女はしばらく思案した後、紅茶を淹れる為に席を立った。

小説「サークル○サークル」01-156. 「加速」

 翌日、アスカは事務所でいつものように煙草をふかしながら、机の上に足を上げ、書類と睨めっこをしていた。
「さーて、どうするかな……」
 書類に目を通したのは一体何度目だろう、と思いながら、アスカはまた最初から書類に目を通し始めた。
 アスカの持っている書類はマキコが言っていたヒサシの浮気相手の個人情報だった。
 アスカの勘は見事に的中していたのだと、写真を見てアスカが安堵の溜め息をついたのは、今日の朝だった。
 どうしても別の案件の確認で手が離せなかったアスカは、所員に浮気相手の勤めているカフェのスタッフを調査するように指示を出していた。そして、アスカの睨んだ通り、そのカフェのスタッフの中に、見事ヒサシが連れて来ていたあの女がいたのだ。
「こういうのがタイプだったとはねぇ……」
 煙草をふかしながら、アスカは一人ごちる。
 女の名前はレナと言い、現役大学生だった。最近、二十歳になったばかりなのか、と誕生日を見て、アスカは驚く。年齢の割に落ち着いているな、と思った。

小説「サークル○サークル」01-155. 「加速」

 きちんと作家として、仕事をし、収入を得た上で考え直してほしいと言わなければ、なんの説得力もないだろう。だが、今ここで思い止まらせなければ、アスカはどんどんどつぼにハマっていくかもしれない。
 それにアスカが異様に優しいことも不安材料の一つだった。アスカが自分から夕飯を作ると言い出したのだ。一緒に暮らしてきて今まで一度だったそんなことはなかった。勿論、シンゴが作家としての仕事をしていなかったから、というのは大いに理由としてはあるだろう。しかし、たかが少し仕事を始めたくらいで、手のひらを返したように態度が変わるものだろうか。
 アスカが急に優しくなったのは、きっとやましいことがあるからだ。シンゴはそう思った。思ったけれど、まさかそんなことを口にするわけにもいかない。
 アスカが夕飯を作ってくれることは、アスカの浮気さえ疑っていなければ、嬉しいことなのだ。
 一体、どうすればいいんだ……。
 シンゴは何度も同じ言葉を心の中で繰り返した。繰り返しても繰り返しても一向に答えは見当たらない。現実は小説よりもよっぽど残酷だ、と感じるのはこんな時だった。

小説「サークル○サークル」01-154. 「加速」

 シンゴはアスカの言葉を一人反芻する。どうしても、「潮時かなって」という一言が引っかかって仕方なかった。決して、良い意味ではないようにシンゴには思えた。
 彼は椅子の背もたれに寄りかかったまま、パソコンの画面を遠くから見据える。次に入力される文字を待ちながら、点滅するラインをじっと見つめた。
 アスカの今までの仕事振りを見ていると、アスカがバーを辞めた理由が、バーでの情報収集が終了したからというのは嘘ではないだろう。けれど、あれだけ、ターゲットに入れあげているアスカが何事もなく、バーを辞めるだろうか。シンゴが引っかかっているのはその点だった。
 きっとターゲットと何かしらの接点をバー以外で持てたから、バーを辞めたに違いない。シンゴはそう踏んでいた。
 やはり、浮気を継続して、自分とは別れるつもりなのだろうか。そう考えるだけで、シンゴは遣る瀬無い気持ちでいっぱいになる。そんなことは今すぐ思い止まってほしい。けれど、そんなことを言える立場ではないことはシンゴ自身が一番よくわかっていた。

小説「サークル○サークル」01-153. 「加速」

「ねぇ、今、いい?」
 アスカがシンゴの仕事場である書斎にやって来るのは珍しかった。シンゴは面食らいつつも、「ああ、いいよ」と彼女を迎え入れる。
「今までしてたバーでの仕事辞めたから」
「えっ……」
 想像もしていなかったアスカの言葉に、シンゴはそれ以上の言葉が出てこなかった。
「もうバーでやらなきゃいけないことは終わったの。依頼主から別れさせてほしいって頼まれてた浮気相手もだいたいの検討がついたし、潮時かなって」
「ああ、そうなんだ」
 潮時という言葉に引っかかったが、シンゴは顔には出さなかった。
「だから、これから、夕飯は私が作るわね」
「えっ、でも……」
「シンゴも仕事忙しいでしょ。他の家事は任せっぱなしだし、夕飯の用意くらい私にやらせて」
「ありがとう」
「じゃあ、お仕事頑張ってね」
 そう言って、アスカは出て行ってしまった。一人残されたシンゴは椅子の背もたれに大きく寄りかかった。シンゴの口から溜め息が零れたのは、それから数秒後のことだった。


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