「まあ、上がってよ━」
そう手招きした槇村の袖口に奇妙な染みを見つける。
(赤い……、血か?)
「なかなか忙しくてさ……。
君もだろうけど、酒の知識に関してだけは誰にも譲れないところがあるんだ。実際、頼られたりもしているし、日々勉強で疲れているのかもしれないな」
評論家の事を言ってやがるな━嫉妬の苦味が俺の胸に滲み出した。
「“狗肉酒”ってのがあってさ。
犬の肉を浸け込んだ強壮を目的とした薬酒なんだけど、何故か、これがなかなか手に入らないんだ……」
リビングは薄暗かったが、ダイニングテーブルの上に口の大きな酒瓶の置いてあるのは分かった。同時に独特の強いアルコール臭が鼻を刺す。
「でも、製法は分かったんでね。
これはひとつ、自家製“狗肉酒”を試してみるしかないかなって……」
俺は足を止めた。いつまで経っても槇村の友人と認めず、無遠慮に吠えかかってくるハウンド犬の“歓迎”がない事に気付いたのだ。
嫌な予感に佇む俺に嘆息し、槇村がリビングの照明のスイッチを押した。
深夜2時、携帯電話が鳴った。
貴重な睡眠を妨げられ、俺は極めて不遜に応対した。
「……もしもし?」
槇村だった。いつもの穏やかな中にも冷徹さを感じさせる声音ではない。どこか怯えたような、不安で押し潰される寸前といった様子が伝わってくる。
「例の試飲会、今からやらない?」
「今から? 夜中の2時だぞ?」
「いや、悪い……。
でも、たった今、珍しい酒が手に入ってさ……」
嫌な予感はした。それでも評論家の件を知って以来、多少の隔たりを感じていた俺は、槇村の申し出が嬉しかったのだ。
行くと返答してからの身支度、外出は、思い掛けずに早かった。
「悪いな、遅くに……」
そう言って玄関のドアを開けた槇村の顔に、俺は思わず息を飲んだ。
「酷い顔だな、大丈夫か?」
暗い顔色と目の淀み、お洒落な槇村には珍しいボサボサの髪━やつれたと表現しても差し支えのないレベルだ。普段は様相のいい男だけに余計に目立った。
苦笑した槇村は、俺の顔を指差した。
「人の事は言えないな。
フラフラした足取りで今にも倒れそうに見えるよ」
それは意外な答えだった。
まったく気付いていなかったが、俺もこんな感じにやつれているのだろうか?
睡眠不足? アルコールの過剰摂取? 単位不足への不安? 槇村への嫉妬と焦燥? 様々な要素を羅列してみたが、目の前の槇村のやつれを形成するほどとは思えなかった。
大学から帰宅してポストを覗くと、衛星放送テレビの機関紙が投函されていた。
普段ならそのままゴミ箱に直行なのだが、表紙にコミカルなイラスト文字で描かれた“酒”の一字に引っかかり、ぱらぱらと捲ってみた。
記事を読み始めて直ぐ、俺は息を飲んだ。進新気鋭な酒の評論家として槇村が紹介されていたのだ。
しかも、CSとはいえ、テレビ出演の予定も掲載されている。
(槇村のヤツ……)
友人の誉れを讃えたい気持ちは微塵も無い。イケメンはいいよなぁとおどける余裕もない。
言い様のない怒りと寂しさ、敗北感で胸がいっぱいになり、俺は機関誌を丸めて地面に叩きつけた。
確かに肝胆相照らすという仲ではなかっただろうが、共通の趣味を持つ者として黙っていられた事に腹が立った。
そして、槇村の知識には俺が教えたものも少なからず存在するはずという自負が、その感情を延焼させていく。
俺は昂る気持ちに任せて、CSテレビのクレーム受付に電話をかけてしまった。
それが八当たりでしかない事は、憤懣の最中でも判断が出来ていた。それでも抑えきれなかったのは、このままでは自分だけが置いていかれるという恐怖にも似た寂しさのためだった。
(あるいは、試飲会で打ち負かせば……)
それで槇村が自らの未熟を悟って評論家を辞退する? 我ながら夢想の範疇と思わざるを得ない。
それでも俺は更に深く酒選びに没頭するのを抑える事が出来なかった。
睡眠時間は更に短くなった。
大学の講義と酒探し━睡眠時間すら削られる状況だったが、俺も槇村も例の試飲会を止める事はなかった。
「これは知ってる?
“雄蛾酒”っていう中国の薬酒だ。雄の蛾の胴体部分を浸けたものさ。強烈でしょ?」
「そんなのは常識の範疇だな。
中国ならこっちの方が凄いぜ━ガマガエルの脂肪を浸け込んだ酒だ」
「悪くないけど、稀少ってほどではないかな。
これは“虎骨酒”━トラの骨を酒に浸けて、その強さを得ようというシャーマニズム的な意味合いから生まれた珍品さ」
「それも常識━。
こいつはこっそり紹介するが……、様々な動物の睾丸を浸けた違う事な強壮酒だぜ」
より珍しいもの、相手が入手していなさそうなものを追い求めるうち、試飲会に用意される酒は、どこか奇を衒った、アンダーグラウンドな珍品が多くなった。結果、二人とも一口も飲まずに終了する日さえあった。
それでも、槇村がすでに所有済みの酒を紹介するのは屈辱的だったのだ。恐らくは槇村もそうなのだろう。
試飲会に持ち寄られる酒のラインナップは、徐々に珍妙さの度合いを増していった。
「あははは、やっぱりな、ははははは!」
クールな槇村が懸命に値段交渉する様子を想像し、俺は思わず吹き出してしまった。
「何が可笑しいんだよ、お前、大丈夫か?」
「ははは、大丈夫さ! むしろ爽快だぜ!」
「お前、まさか……」
「ん?
いやいや誤解だ! 一口も飲んでないって!」
講義をさぼって昼間から酒を飲んでいやがった、そんな悪い噂━まあ、ほとんど真実なんだが━を触れ回られてたまらない。俺は込み上げる笑いを奥歯で噛み殺した。
「とにかく大学に来いよ。一応、みんな心配してるんだからな」
「分かった、分かった、ありがとな」
あの槇村がそこまで追い詰められているのだ。先に降りられるものか。
しかし、自ら志望し、親に仕送りを強いてまで通わせてもらっている大学だ。
この不景気、酒屋の上がりなど知れている。これで留年となれば、親がどれだけ落胆するか。さすがにそれは辛い。
俺は酒を探索する忙しさにプラスして、最低限の講義に出席せざるを得なくなった。