小説「サークル○サークル」01-311. 「加速」

 アスカは久々に朝から事務所でゆっくりと書類に目を通していた。
 いつものように煙草をふかし、脚は机の上に乗せ、手を伸ばせば届く位置には紅茶の入ったカップを置いていた。
 仕事とはいえ、毎朝、カフェに通うのは正直アスカにとっては疲れることだった。最初のうちは珍しいことに多少はウキウキしたが、そのウキウキもしばらくすれば、退屈に代わる。仕事なのだから、当たり前と言ってしまえば、それまでだったが、その疲労から解放されたことは大きい。
 アスカは書類を確認し終えると、くわえていた煙草の灰を灰皿に静かに落とした。そのまま、煙草をカップに持ち替えて、紅茶をゆっくりと飲んだ
 久しく、事務所の掃除をしていないな、と思って、床に視線を落とすと、床がキレイになっているのに気が付いた。他の所員が掃除してくれていたのだろう。アルバイトとして雇って数年が経つが、気の利く所員に育ったことを嬉しく思っていた。
 最初はどんなことでもいちいち言わなければ、することが出来なかった。これが噂のゆとり教育世代か、とも思ったが、一つずつ丁寧に教えれば、確実にこなしていく。
 数年経てば、何も言わなくたって、気が付いたことをしてくれるまでに育つのだ。ゆとり世代だと揶揄されることも多いし、人に寄るのだろうが、育て方次第だな、とアスカはキレイになった床を見ながら思った。

小説「サークル○サークル」01-310. 「加速」

シンゴはテレビの電源をリモコンで切ると、飲み終えたコップをシンクに置く。水道の蛇口をひねり、置いたコップに水を注いだ。牛乳は時間が経つと、白く残って、落ちにくくなる。そのまま、洗ってしまえば良いのだが、なんだか今は洗い物をする気にはなれなかった。
冷蔵庫にあったアイスコーヒーを別のグラスに注ぐと、それを持って書斎へと向かう。
書斎の電気を点け、椅子にどっかりと腰を下ろすと、パソコンの電源を入れた。パソコンを立ち上げている最中、シンゴは自分の書くべきことを頭の中で整理する。
小説を書くにあたって、難しいことは何もない。自分の経験したこと、見たことを言葉に置き換えれば済む話だ。勿論、そこには自分のフィルターを通した感情やモノの見方などが反映される。実話を元にはしているけれど、実話だけをたらたらと書き綴ったところで小説にはならない。そこにはいくつかのエッセンスが必要だった。
シンゴは立ち上がったパソコンから書き途中のデータを開くと、キーを打ち始めた。
もうすぐ小説が書き終わる。
アスカの仕事がここで終われば、の話だけれど。

小説「サークル○サークル」01-309. 「加速」

アスカは浮気をしていなかったのだ。それだけで随分シンゴの気持ちは救われた。これでアスカとシンゴの離婚はないということだ。離婚しなければいけないと思っていた理由はシンゴの勘違いだったのだ。
今ここでアスカを失うのは避けたかったし、最悪のシナリオは免れたのだと思うと嬉しかった。
けれど、手放しで喜べないという気持ちもあった。
アスカが言った通り、レナがターゲットに丸め込まれたら、アスカがターゲットを落としにかからなければならないのだ。そうなれば、疑似恋愛をすることになる。アスカは仕事とは言え、ターゲットは本気になるだろう。ともすれば、アスカだって、なびいてしまうかもしれない。
シンゴはどこまでも自分に自信がないのだということに溜め息をつきたくなった。
冴えない自分。特にこれといって、男として誇れることがないということに、落胆はしても、開き直ることなど到底出来なかった。もし開き直れれば、どんなに楽だろうか、とも思っていた。

小説「サークル○サークル」01-308. 「加速」

シンゴが起きた頃には、アスカはすでに仕事に行っていた。壁に掛かっている時計はすでに十一時を指している。朝ご飯を食べるには遅すぎて、昼ご飯を食べるには早すぎる。
取り敢えず、顔を洗い、冷蔵庫から牛乳を取り出すと、なみなみとコップに注いだ。
シンゴはコップを持ったまま、ソファに座ると、テレビをつけた。
昼のワイドショーが始まったところだった。テレビでは相変わらず、芸能人のゴシップが取り上げられている。芸能人というだけで、好奇の目にさらされるというのは、可哀想だな、と思う同時に、有名税にしては高すぎるだろう、とも思う。のんきにそんなことを思いながら、シンゴは牛乳を飲み、ぼんやりと昨日のアスカとの会話を思い出していた。
アスカは上機嫌でありながら、どこか冷静でもあった。まだ喜ぶには早い、というのが長年この仕事をしてきたアスカの感想なのだろう。
けれど、シンゴにとっては、半分くらいはどうでもいいことだった。
シンゴにとっては、アスカの仕事の成功よりも、アスカが浮気をしているか、していないかの方が重要だったし、興味のあることだった。

小説「サークル○サークル」01-307. 「加速」

「平気よ。まだ飲み足りないんだもの」
「それならいいんだけど」
アスカとシンゴはグラスを傾けて乾杯する。グラスの中に入っている泡が大きく揺れた。
一口ビールを飲むと、アスカは溜め息とは異なる息を大きく吐いた。
「今日ね、レナと会って来たの」
「どうだった?」
「不倫をやめさせる方向で決着したわ」
「良かったじゃない」
全部近くで見ていたよ、とはさすがに言えず、シンゴは初めて知るような素振りを見せる。
「だけど、まだ安心は出来ないわ。あの子がホントに別れ話を切り出すか、切り出したとして、ターゲットに丸め込まれないか……」
「まだ心配な点はあるってことだね。でも、仕事の半分以上はすでに終わったってところかな?」
「そうね。もしこれでダメだったら、ターゲットに再接触して、ターゲットを私が落とすって方向に切り替えるしかないわ」
「そうならないように祈ってるよ」
「ありがとう」
アスカとシンゴはその後、他愛ない会話を続けた。そして、その会話の最中にアスカの言った「飲んでないとやっていられないのよ」という言葉にシンゴは言いしれぬ不安を感じていた。


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