芸能人は大変だな、とシンゴは思った。一夜限りのお遊びも浮気も、全て電波を使って、全国に流されてしまうのだ。普通だったら、せいぜい、パートナーとその両親くらいにしか責められないのに、見ず知らずの人間にまで叩かれる。有名税と言ってしまえばそれまでだけれど、叩いている人間がその芸能人を応援していたとは考えにくい。そうなると、叩かれ損だ。
自分とアスカの場合はどうだろう……とシンゴは思った。
果たして、アスカを責めるだろうか。責めるだけの熱量を自分が持っているとは、シンゴには到底思えなかった。事実確認をして、腹が立っていることを冷静に伝え、その後、離婚の手続きについて話をするだろう。
浮気相手の男は一流企業に勤めているようだし、慰謝料請求をしてもしっかり払ってもらえそうだな、とそこまで考えて、苦笑する。
自分が欲しいのはお金なんかじゃないはずだ。シンゴだって、真面目に仕事をすれば、食べていけないわけではない。僅かばかりの印税だって、数か月に一度振り込まれている。
ただ相手の男がなんのペナルティもなしに生活を続けていくことが我慢ならなかったのだ。復讐と言っても過言ではない。そういった気持ちがシンゴの中に沸々と芽生え始めていた。
電気ケトルが湯を沸かし終えたことを知らせると、シンゴはドリップコーヒーを淹れる。全てのお湯がマグカップに落ちると、マグカップを持って、再び、ソファに腰を下ろした。
ワイドショーはまだゴシップを流している。
表示されている時間に目を遣り、シンゴはケータイを取り出した。
ユウキのアドレスに待ち合わせ時間を送ると、コーヒーに口をつけた。
程よい苦さを伴って、コーヒーはシンゴの喉をゆっくりと流れていく。
今日が勝負だ、とシンゴは思った。
今日、動かぬ証拠を捕まえて、アスカに話をするつもりだった。そうして、このもやもやした日々にピリオドを打とうと考えていた。
いつかはアスカが帰って来てくれる。そう思ってはいたけれど、今日のアスカの涙を浮かべたあの言葉で、揺らいでいたシンゴの気持ちは確かなものへとなってしまった。
壊れたものは二度と元には戻らない。
そうシンゴは確信していた。
もっと時間はゆっくり流れるものだと思っていた。けれど、夜はあっという間にやって来て、シンゴは今、ユウキとともにアスカの後をつけていた。
「こんなことして、本当に大丈夫なんですか……?」
あれだけ尾行する時は一緒にさせてくれと言っていたユウキだったが、いざその時が訪れると、どうやら落ちつかないようだった。
「バレなければね。まぁ、あまりオススメは出来ないけど」
「俺がもし尾行する時、シンゴさん、ついてきてくれませんか?」
「仕事が修羅場じゃなければ……。一応、考えておくよ」
シンゴはそれきり黙った。そんなシンゴを見て、ユウキの緊張感は更に高まる。
アスカは駅ビルの入口でレナを待っているようだった。
辺りをキョロキョロしたり、ケータイを気にしたりしいている
シンゴは腕時計を見た。腕時計は十九時の数分前だった。きっとアスカはレナと十九時に待ち合わせをしているのだろう。
「あ、来たみたいです」
ユウキの声にシンゴは顔を上げた。
アスカが前方を見て、ケータイをしまっている姿が見えた。
「えっ……」
突然、ユウキが緊張感のある声を出した。驚いて、シンゴはユウキを見る。その顔色はひどく悪かった。
「どうかしたの?」
心配そうにシンゴがユウキを見ると、彼の顔はみるみるうちに白さを増した。
「シンゴさん……こんなことってあるんですね」
シンゴはユウキの言っている意味がわからず、眉間に皺を寄せた。
「奥さんの待ち合わせ相手、俺の言ってた女の子です……」
シンゴは一瞬のうちに目の前が真っ暗になる。これはまずい、と思った。アスカが会っているレナはターゲットの不倫相手であり、そのターゲットとアスカは不倫している。そこにレナのことを想うユウキがいるのだ。ユウキの頭に血が上ってしまえば、修羅場になることは間違いない。勿論、その時点でシンゴがアスカを尾行していたこともバレるだろう。レナにだって、アスカの正体はバレてしまって、泥沼の展開が待ち構えていることは容易に想像出来た。
ユウキを連れて来たのは間違いだったな、とシンゴは内心毒づいた。けれど、こうなってしまっては、後の祭りだ。
シンゴは気持ちを入れ替えて、ユウキの肩にぽんっと手を置いた。
「今日は付き合わない方がいいと思うよ」
「いえ、付き合います!」
「僕は一人で大丈夫だし、好きな女の子を尾行するなんて良くないだろう。もし、彼女の不倫相手が出て来たら、どうするんだ? 感情的になって、彼女たちの前に出て行ったら、関係がぐちゃぐちゃになるだけだろう」
シンゴは暗に帰れと言っているのだが、ユウキにはその本意は届かなかったようだ。
「いえ、俺なら大丈夫です。冷静に対処しますから!」
ユウキは自信を持ってそう言った。シンゴは「でも……」と言いかけてやめた。ユウキの目があまりに真剣そのものだったからだ。
「わかった。くれぐれも無茶なことはしないようにね」
「はい!」
「どうやら、移動するみたいだね」
シンゴは動き出したアスカとレナの尾行を始めた。
「今日は行きつけの和食屋さんなんてどうかなって思うんだけど、そこでいいかしら?」
「はい! 最近、和食好きなんで、嬉しいです!」
レナは笑顔でアスカの質問に答える。こんなにも素直な笑顔を向けるレナを見ていると、ヒサシのことが許せない気持ちになるから不思議だ。明らかに良心のある大人のすることではないな、とヒサシの行動を思った。
不倫は男女ともに非がある。けれど、レナはまだ若く、恋に恋する年頃だ。そんな女の子相手に大人がちょっかいを出していいわけがないのだ。
今日、レナにヒサシとの別れを決意させる。それがアスカのやるべきことだった。依頼の期限を考えても、今日は絶対に失敗が出来ない。アスカは歩きながら、話の持って行き方をもう一度反芻していた。
「あの……アスカさん」
「何?」
「いえ……何でもないです」
レナは何かを言おうとしてやめた。アスカは気になったが、敢えて、深くは訊かなかった。話す必要があることなら、レナが自分で話すだろう。
「仕事はどう?」
アスカは当たり障りのない話題を振る。
「はい。いつも通りです。仕事してる時は仕事のことだけ考えてられるからいいなって」
レナはそう言って苦笑する。アスカといろいろ話をしていくうちに不倫をしているということの苦痛が次第に増しているようだった。
「そう……」
アスカは相槌を打ちながら、角を曲がる。そこにアスカの行きつけの和食屋があった。
「ここよ」
店に入るアスカの後をレナがついていく。店員の「いらっしゃいませ」という落ち着いた声で二人は出迎えられた。
注文した料理がいくつかテーブルに到着し、二人は食事に箸をつけていた。会話は世間話が中心で不倫の核心にはまだ及んでいない。
グラスの飲み物が半分くらいなくなったところで、もうそろそろいいか、と思い、アスカは切り出した。
「さっき言ってた仕事に打ち込んで考えないのが楽……っていうのだけど……。それって、もう恋が終わりに近づいてるってことじゃないかしら」
アスカの言葉にレナの表情が一瞬曇った。
レナは黙ったまま、じっとアスカを見ている。言葉を探している素振りもなかった。ただアスカの言っていることが正しいとその目は言っていた。
「違った?」
アスカは正しいということがわかっていながら、レナに問う。何を考えているのか、レナの口から聞きたかったのだ。
「……終わりに近づいているんだと思います」
レナは小さな声で言った。
アスカはやっぱりわかっているのね、と思ったけれど、それは口には出さなかった。
アスカがレナと接触するようになってわかったのは、レナは賢いということだった。
大抵、不倫をしている場合、我を忘れている場合が多い。その為、客観的に自分や相手を見ることが出来なくなってしまっているのだ。けれど。レナは違った。感情で動いているように見えて、その実、至極冷静に現状を把握していた。
だからこそ、アスカはレナのことが少し不憫でならなかった。冷静さを保っているということは、罪悪感もしっかり感じているということだからだ。
「どうするの?」
アスカは静かに聞いた。
「それは……」
レナは口を開きかけて、言葉に詰まる。
アスカはレナが続きを話し始めるまで何も言う気はなかった。グラスのビールを飲みながら、レナの言葉を待つ。けれど、レナは一向にそれ以上言葉を続ける素振りはなかった。気が付けば、アスカのグラスは空になっていた。
途中、店員がオーダーを取りに来て、まもなく、二杯目のビールが来た。アスカは新しいビールに口をつけて、レナを見る。レナは俯いて、悩んでいるようだった。
「それは……」
アスカはまた同じ言葉を繰り返した。何を戸惑っているのだろう、とアスカは不思議に思う。もしかしたら、助け舟を待っているのではないかと思い、アスカは口を開いた。
「決めてないの? それとも、決めてるけど、言うのが怖い?」
アスカの言葉にレナははっと顔を上げる。
「口に出してしまったら、その通りになってしまいそうで」
レナのその言葉を聞いて、アスカはレナが不倫をやめるのだということを悟った。
シンゴとユウキはアスカとレナに気付かれないように、少し離れた席に座った。格子状の衝立のおかげで、顔を見られる確率は随分と減ったように感じられた。
「開始早々、なんだか深刻そうな雰囲気だね」
シンゴはアスカの目が仕事モードになっているのを見て、溜め息混じりに言う。
「レナは今にも泣き出しそうですね……」
ユウキはレナがアスカに詰問されているのではないかと、心配そうに言った。
「あの……今更なんですけど、訊いてもいいですか?」
「何?」
ユウキは神妙な面持ちでシンゴを見る。
「シンゴさんの奥さんは別れさせ屋で、ターゲットの男と浮気してるんじゃ……って話でしたよね。レナが奥さんと一緒にいるってことは、奥さんが別れさせようとしている男とレナが不倫している、ということですよね……?」
「ああ、その通りだよ」
シンゴは短く答えて、ソフトドリンクに口をつけた。視線はアスカを捉えたままだ。
「ていうことは、レナが不倫している相手と奥さんが浮気している相手は同じ……」
ユウキはひとつひとつの真実を確かめるように言った。
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アスカは食器を洗いながら、テレビを観ているシンゴをキッチンからちらりと見る。
シンゴは難しい顔をして、テレビの画面を凝視していた。
そんなに嫌なニュースでも流れているんだろうか、と思ったが、ふとアスカはシンゴが仕事で悩んでいるのかもしれない、と思った。
シンゴは今までろくに小説を書いていなかった。アスカの前では?にも出さないが、ブランクがある分、本当は書くのが辛いのかもしれない。
アスカは放っておくのがいいのか、それとも、そのことについて声をかけた方がいいのかを悩む。
どうしよう……と思っていた矢先、手から皿が滑り落ちた。
アスカが「あ、」と思った時には甲高い音がして、皿が割れた。
慌てて水を止めて、皿の破片を拾い集めようとする。
「大丈夫?」
声がして振り向くと、アスカの背後にはいつの間にかシンゴがやって来ていた。
「大丈夫。ちょっと手が滑って、お皿が割れちゃっただけだから」
アスカはそう言って、破片に手を伸ばした。
「っ……」
急いでいた所為で、アスカは指を切る。あっという間に赤い血が滴った。
「全然大丈夫じゃないじゃないか」
「ごめん……」
「救急箱持ってくるから、止血して、そこ座ってて」
シンゴはダイニングテーブルの椅子を指差すと、寝室へと消えた。
アスカは溜め息をついて、血の流れる人差し指を抑えて、椅子に座った。シンゴが寝室に行く寸前、椅子を引いてくれていたおかげで、簡単に椅子に座ることが出来た。
近くにあったティッシュで指を覆い、シンゴが戻ってくるのを待つ。
随分とケガなんてしていなかったし、消毒液があったかな、とアスカは思いながら、ぼんやりとテレビの方を見た。
テレビ画面の映像はアスカの位置から見えなかったけれど、画面から放たれる光がちらちらとローテーブルに反射しているのが見えた。
しばらくすると、シンゴが救急箱を持って、戻って来た。
「ごめん」
アスカは救急箱をダイニングテーブルに置くシンゴに申し訳なさそうに言う。
「気にしなくていいよ。それより、まだ血、止まりそうにないね」
「結構、深いのかな……」
「いや、指はよく血が出るから。取り敢えず、消毒しよう」
そう言って、シンゴは救急箱から消毒液を取り出した。
手当を終えると、アスカはぼんやりとシンゴのことを目で追っていた。
「どうしたの?」
シンゴは救急箱を片付けて戻って来るなり問う。
「シンゴ、ごめん」
アスカの顔が苦痛に歪む。
シンゴはとうとう来たか、と思った。きっとアスカは浮気を告白し、別れを告げて来るに違いない。一瞬のうちにシンゴは覚悟する。黙ったまま、アスカ次の言葉を待った。
「シンゴ、私……」
アスカは涙目でシンゴを見上げる。シンゴは座るタイミングを失い、立ったまま、アスカを見下ろした。
「……」
本当は「言わなくていい」とアスカに言いたいと思ったが、ここでそんなことを言ってしまったら、アスカが別れを告げるタイミングを先延ばしにするだけだ。シンゴは開きそうになった口をつぐんだ。
「……なに?」
シンゴは代わりに優しく訊いた。
「……私、奥さんとして失格だよね」
「……」
アスカの言葉にシンゴは何も言えなかった。ここで肯定することも否定することも早すぎると感じたのだ。
アスカは黙ったままのシンゴから視線を外し、視線を床に落とした。
「料理もシンゴの方が上手だし、家事を張りきったら、ケガするし……」
「……気にすることないよ」
辛うじて、シンゴは返事をする。きっとアスカは軽い前置きをしているのだろう。シンゴはそう思いながら、アスカの次の言葉を待った。
「私、奥さんとして失格だよね」
「……」
それは浮気のことを指しているのだろうか? だとしたら、間違いなく、イエスだとシンゴは思った。けれど、シンゴは何も言わない。浮気の話を自分から切り出すまで、シンゴは核心に触れるつもりはなかった。
「私ね、仕事を一生懸命して、家事もそつなくこなしてくれるシンゴを見ていて思ったの。私って仕事を言い訳にしてるだけなんだなって。これからはもっともっと頑張るから。だから……」
「……」
「嫌いにならないでね」
「……?」
シンゴはアスカの言葉に違和感を覚える。シンゴが予想していたのは、こんな言葉ではなかった。
シンゴはアスカの口から「嫌いにならないで」なんて言葉が出てくるなんて思ってもみなかった。
これは不倫相手と別れたことを意味しているのだろうか? それとも、継続している上での謝罪なのだろうか?
シンゴは考えてたみたものの、いまいちわからなかった。
「呆れちゃうよね、ホントにごめんね……」
アスカは申し訳なさそうに繰り返した。思わず、シンゴは口を開く。
「それは今までの家事に対するごめんなさい?」
「そうよ。小説を書くようになったシンゴはいつも疲れてるのに、文句も言わず、家事をしてくれるでしょう? しかも、完璧に。なのに、私は家事が下手過ぎて、いつも悪いなって思ってて……」
どうやら、アスカが謝っているのは、浮気のことではないらしい。シンゴは腑に落ちなかったが、作り笑顔を浮かべてアスカを見た。
「気にすることないよ。家事は得意な方がやればいいし、実際、アスカは一生懸命してくれているだろう? 僕はその気持ちだけで十分だよ」
「シンゴ……」
アスカは感動したようにシンゴを見た。
シンゴはアスカの隣に座ると、近くでアスカの目を見つめた。
「僕は仕事に一生懸命なアスカが好きだし、カッコイイと思ってる。だから、今のままでいいよ。勿論、家事を頑張ってくれるのも嬉しいけど、無理をしてまでやってほしいとは思わない」
シンゴはアスカを傷つけないように言葉を選びながら話した。そんなシンゴの言葉を聞いたアスカは、どことなく嬉しそうだった。しかし、目は未だに潤んでいる。
その反面、シンゴは自分の口から出た言葉に驚いていた。さらりと「アスカが好き」と口をついて出たのだ。その事実に戸惑いを隠せない。
シンゴは浮気をしているアスカのことをただ憎いと思っているのではないか、と思っていた。けれど、違ったのだ。
好きだから、ただ浮気をやめてほしい。その思いだけでシンゴはアスカの尾行をし、気持ちを抑えつける為に小説を書いているのだ。アスカに直接自分の思っていることをぶつけてしまえば、アスカとの関係がぎくしゃくし、終わりを迎えてしまう。そのことをシンゴはまだ受け入れたくなかったのだ。
そうした自分の本心に気が付いた時、人は面食らい、呆然とするのだということをシンゴは身をもって知った。
「ごめんね。こんな話して」
アスカは少し困ったような顔をして言った。きっと作り笑いをしているつもりなのだろう。そんな不器用さにシンゴは、ふと本当はこんなに不器用なアスカに浮気なんて器用なことが出来るのだろうか、と不思議に思う。
けれど、すぐにシンゴの頭には別の考えが過ぎる。彼女は別れさせ屋なのだ。男女関係のことに関しては、器用不器用は別なのだろう。シンゴは自分をそう納得させた――はずなのに、どこか腑に落ちない。シンゴは一体、なんの為に尾行をするのだろう……と一瞬考え込みそうになったけれど、シンゴはそれ以上深く考えなかった。考えたって、自分1人の考えだけでは、堂々巡りになってしまうからだ。
「気にすることはないよ。少し疲れてるんじゃない?」
「……確かに、今回の案件も山場だし、プレッシャーもすごく感じてて、最近、夜中でも何度も目を覚ましちゃうのよね」
アスカは視線を床に落とし、少し困ったように笑って言った。
「原因はきっとそれだよ。睡眠不足で疲れが抜けきらないんじゃないかな。今回の案件が終わったら、そうだな……。温泉でも行こうか」
勇気を振り絞って、シンゴは言った。
「……そうね」
少し間があって、アスカは答える。アスカの表情は曇っていて、全く嬉しそうではない。その顔を見て、シンゴは「ああ、そうだよな」と思った。好きでもない旦那に温泉旅行を持ちかけられたら、鬱陶しいとは思っても嬉しいとは思えないだろう。
シンゴは言わなければ良かった、と思った。けれど、もう後の祭りだ。
「指はもう大丈夫?」
シンゴは怒りと悲しさで気が狂いそうだったけれど、平静を装ってアスカに訊いた。
「うん、平気」
「じゃあ、僕は仕事に戻るね。後片付けはそのままにしていていいよ。あとで僕がやっておくから」
「……うん……」
アスカは元気のない様子で頷いた。
シンゴはアスカの方を見ることもなく、立ち上がる。彼女のことを直視出来る程、シンゴは強くなかった。
シンゴは書斎に戻り、大きな溜め息をついた。
椅子に腰をかけ、パソコンを起動させる。
起動音が鳴り、画面が表示されると、パスワードを入力し、いつものようにワードを立ち上げた。
並んでいる文字を見ながら、シンゴは文字を打とうとして、手を止めた。アスカのことが脳裏を過ったからだ。
あの時、あのタイミングで書斎に戻るというのは、不自然だったかもしれないと思ったからだ。せめて、キッチンを片付けてから、書斎に戻れば良かったと思う。
けれど、温泉旅行をあんなに嫌そうな顔をされて、平気でいられるわけがない。
シンゴはこんなにもアスカのことが好きなのだ。好きなのに、その相手には別に好きな人がいる。
恋人同士だとしたら、まだ諦めもつくけれど、結婚しているということが、想いの複雑さをより深いものにしていた。
シンゴはもやもやした気持ちを振り払うかのように、パソコンに向かった。
白い画面が文字で埋まっていく。その光景を不思議だと思いながら、シンゴはひたすら文字を打ち続けた。
余計なことを考えたくなかったからだろうか。気が付けば、シンゴは数十枚の原稿を書き上げていた。
コーヒーでも飲もうと書斎を出ると、すでにアスカの姿はなかった。シンゴは溜め息をつく。それは安堵からくるものなのか、落胆からくるものなのか、よくわからなかった。
シンゴはキッチンに向かう途中、ふいにダイニングテーブルの上に置いてある紙が目に入った。なんとはなしにそれを手に取る。それはアスカからの置手紙だった。
そこには整った字で“仕事に行ってきます。今日は夜、事務所に寄って帰宅しないかもしれないので、心配しないで下さい”と書かれてあった。
事務所に寄る? とシンゴは眉間に皺を寄せた。ターゲットとの密会の間違いではないだろうか。そんなことを考えて、シンゴはふっと自嘲した。
電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。湯を沸かし始める音が聞こえた。
ソファに座り、テレビを点けると、見慣れたワイドショーが芸能人のゴシップを伝えているところだった。
続き>>01-281~01-290「加速」まとめ読みへ
シンゴは今日ユウキに話すべき内容を頭の中で組み立てる。そして、話していいものなのか、誘っていいものなのか、自問する。答えはすでに決まっていた。だから、シンゴはユウキを公園に誘ったのだ。けれど、その答えに自信が持てずにいた。
そんな時間を過ごしている間に、シンゴの見つめる地面に影が落ちた。ふと顔を上げると、そこにはユウキが立っていた。
「すみません。お待たせしました」
ユウキは少し息を切らしながら、シンゴを見た。
「いや、僕こそ、突然誘ってごめん」
シンゴの言葉を聞き終えると、ユウキは隣に腰を下ろした。
「もしかして、昼ご飯、食べるの待っててくれたんですか?」
「ああ、一緒に食べようと思って」
「ありがとうございます!」
ユウキはシンゴに笑顔を向けた。
シンゴはその笑顔を見て、ユウキを待っていて良かったな、と思う。
二人はほぼ同時にコンビニの袋の中からガサガサと、シンゴは菓子パンを、ユウキはおにぎりを取り出した。
「ところで、今日は何か俺に用があったんですか?」
ユウキは二つ目のおにぎりのセロハンを外しながら言った。
「ああ、そのことなんだけど……」
シンゴはそこまで言って口籠る。本当に自分が言おうとしていることが正しいのか、一瞬躊躇した。
「どうかしました?」
「いや……。実はさ、尾行しようと思ってて」
「奥さんを?」
「ああ、そうなんだ。それで、君も一緒にどうかなって思って。言ってただろう? 尾行する時は連れて行ってほしいって」
「はい」
「まだ君の好きな女の子は不倫しているの?」
「多分……。最近、会ってないから、確かなことはわかりませんけど……」
ユウキは小さな溜め息をついて答える。
「どうする? 一緒に尾行に行ってみる?」
「いいんですか!?」
「ああ、君が実際に彼女を尾行しないで済むような結果になることを願ってるけど」
「俺もそうなればいいとは思ってるんですけど……」
ユウキは浮かない顔で相槌を打つ。そんなユウキを見ながら、シンゴは思わず自分を重ねて見てしまった。
自分もこんな浮かない表情をしているのだろうか、と考えて、シンゴは作り笑いを浮かべた。そして、ユウキを見据える。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「はい!」
ユウキは目を輝かせて、シンゴを見る。
しばらく他愛ない会話を交わし、食事を終えると、シンゴは詳細はメールすると言って、ユウキと別れた。
家に帰ってくると、すでにアスカがいた。
「あ、おかえり。どこ行ってたの?」
「コンビニに……」
「そう……。何も買わなかったの?」
「いや、昼ご飯買ったんだけど、公園で食べて来ちゃった」
「今日、天気いいものね」
ちらりとダイニングテーブルに目を遣ると、キッチンパラソルに入っている食事が目に入った。
「もしかして、これ……」
「シンゴも食べるかなーって思って、作っておいたの」
「ごめん」
「いいの、気にしないで。メールして訊けば良かったんだもの」
アスカはそう言って、苦笑した。
手洗いとうがいを済ませると、シンゴはキッチンパラソルをどけた。
シンゴがキッチンパラソルをどけたのを見て、アスカは驚いた顔をする。
「無理しなくていいよ」
「いや、コンビニの菓子パンだけじゃ足りなくて」
「それならいいんだけど……。温めなくて平気?」
「ああ、このままで平気」
そう言って、シンゴは皿の中をまじまじと見た。皿の中にはエビチャーハンが入っている。
シンゴはちらりとアスカを見た。
アスカはどことなく嬉しそうだ。シンゴはソファの前にあるテーブルにお皿を置き、ソファに腰を下ろした。
「今日はなんでこんなに早く帰って来たの?」
シンゴはスプーンでチャーハンをすくい、口に運びながら訊いた。
「他の案件のチェックもないし、書かなきゃいけない書類も新しい仕事の依頼もなかったから、たまには早く帰って来て、家事でも頑張ろうかなって思って」
アスカは微笑む。
「例の件は順調なの?」
「ええ。明日の夜、不倫相手と飲みに行くことになったの」
「飲みに?」
「これでもっと不倫について詳しい話が聞けると思うわ」
「それじゃあ、別れさせられるのもあとちょっとってこと?」
シンゴはチャーハンを食べる手を止めて、アスカを見た。
アスカはしばらく悩んだ後、口を開く。
「そうね……。ターゲットと接触したけど、あの男をどうこうっていうのは無理だと思うの。だから、あの女の子を別れさせたいって思うような方向に持って行きたいんだけど……。今回の飲みで畳みかけるつもりではいるわ」
「そうなんだ……」
シンゴはぽつりとつぶやくように応えると、チャーハンを立て続けに口に運んだ。
「ターゲットには会わないの?」
「そうね……。状況次第ね。明日、あの女の子と別れてから、バイトしてたバーに行って、接触するのもアリかな……とは思ってる」
「今日じゃないんだ?」
「えぇ、不倫相手の状況を詳細に確認してから、ターゲットに接触して、有効な方法を取った方がいいかな……とは思ってるわ」
シンゴはアスカを尾行するなら、明日の夜だと思った。
仕事としてアスカは接触すると言っている。それは、万が一、アスカが帰って来なくてもシンゴに怪しまれない為だろう。
シンゴは次第に自分の鼓動が速まっていくのを感じていた。それは緊張から来る動悸だった。
昨日はなかなか眠れなかった。翌日、アスカを尾行すると決めていたからだ。
シンゴは目をこすりながら、ベッドから抜け出す。アスカはすでに寝室にはいなかった。
「おはよう」
寝室から出ると、エプロン姿のアスカがキッチンから顔をのぞかせて言う。
「おはよう……」
まだぼんやりとする頭のまま、シンゴは答えた。
アスカは機嫌が良い。その事実がシンゴの胸をざわつかせた。
きっとあの男に会いに行くに違いない――。
シンゴはそう思った。だからこそ、アスカはこんなにも楽しげに朝からキッチンに立っているのだ。夫であるシンゴに朝食を作るのも、せめてもの罪滅ぼしに見えた。
シンゴは顔を洗うと、Tシャツとスウェットのまま、ダイニングテーブルにつく。ぼんやりとアスカの横顔を眺めていた。
「もうすぐ出来るから」
アスカの声だけが聞こえたが、シンゴは答えなかった。
しばらくすると、ふわふわの卵焼きが乗ったトーストとサラダ、コーンスープとホットコーヒーがシンゴの前に並べられた。
アスカも自分の分を並べて、席につく。
シンゴとアスカは一瞬、顔を見合わせ、「いただきます」と口にした。
「今日は随分と朝早いんだね」
シンゴはコーンスープを一口飲んで言う。
「ええ。今日はカフェには行かずに、飲み会の前に事務所寄るだけにしようと思って」
「仕事は大丈夫なの?」
「特に案件の進捗もないし、大丈夫よ。たまには家事をやる日も作らないと。今日は洗濯もアイロンかけもバッチリやってから、出掛けるわ」
アスカは言いながら、トーストに手を伸ばした。
アスカのトーストには卵とトーストの間にケチャップが塗られている。ケチャップの赤い色がちらりと見えて、アスカがケチャップ派だということを思い出していた。シンゴのトーストにはマヨネーズが塗られている。
サラダとトーストを交互に食べながら、シンゴはアスカに気付かれないようにアスカのことを何度もちらちらと観た。
アスカの様子はいつもと同じだ。キッチンに立っていた時のようなウキウキした感じは見受けられなかった。もしかしたら、浮かれている自分にはっとして、いつも通り振る舞っているのかもしれない。
シンゴはコーンスープを飲み干して、空になったマグカップの底をしばらくの間、見つめていた。
「どうしたの? 難しい顔して。カップの底に何か書いてある?」
アスカは笑いながら、シンゴを見る。
「いや……」
シンゴは気の利いた言葉も思いつけないまま、アスカの言葉に曖昧な相槌を打った。
「シンゴは仕事は順調? 小説はだいぶ書き終わったの?」
「順調だけど、まだ半分くらいかな。あと二週間くらいで書き終わると思うけど」
「随分、早いのね」
「書き出しさえ決まってしまえば、大して苦労はしないんだよ」
「そういうものなのね。私には未知の世界だわ。でも……シンゴが今書いてる小説がすごく楽しみなの」
ろくに本も読まないアスカが自分の本を楽しみにしてくれている、という言葉を聞いて、シンゴは心底驚いた。けれど、シンゴは驚いたことを悟られないように表情を動かさないように努める。
「ありがとう。頑張るよ」
口ではそう言ったが、内心、ああ、やっぱり、とシンゴは溜め息をついていた。浮気をしている罪悪感から、きっとアスカはこんなことを口にしているのだ。
シンゴは「おいしいね」と言いながら、朝食を食べていたけれど、考え事の所為でいまいち味はよくわからなかった。
「こういう時間って大切よね」
「えっ……?」
「二人で一緒に朝食をとる時間。穏やかで、一日の始まりに必要な時間だなって思って」
アスカは微笑む。シンゴも一拍遅れて、微笑んだ。アスカからそんな言葉が発せられるなどと思いもしなかったのだ。
「結婚してから、こういう時間、取って来なかったもんね」
「えぇ……。夫婦らしい夫婦ではなかったわよね……」
アスカはそう言って、少し遠い目をした。
シンゴは嫌な予感がした。
これではまるで別れ話の前振りのようではないか。こうやって、今までの自分たちを振り返り、もっとあの時こうしておけば良かったと口にするのだろう。
シンゴは速くなっていく鼓動から意識を反らせようと、コーヒーを喉に流し込んだ。冷めてしまい、生ぬるくなったコーヒーはシンゴの空しさを増幅させていく。
シンゴの目の前にいるアスカはトーストの最後の一口を今まさに食べようとしていた。
「ごちそうさま」
シンゴはアスカが食べ終わったのを見計らい、食器を持って席を立とうとする。
「いいよ、置いておいて。私が片付けるから」
「でも……」
「言ったでしょう? 今日は家事をバッチリするって」
アスカはシンゴの手から皿を取ると、シンクへと持って行く。
「……」
シンゴは黙ったまま、アスカの後ろ姿を見据えた。
全てのことが別れの兆候にしか思えず、嫌な考えしか浮かばない。
シンゴはアスカに気付かれないように溜め息をつくと、ソファに腰をかけた。
すぐに書斎に行くのは気が引けたし、かと言って、ダイニングテーブルにいるのも違和感がある。
テレビの電源ボタンを押すと、見慣れた朝の情報番組がついた。テレビには馴染みのキャスターが映し出され、昨日起きた事件の新たな情報が次々と流れてくる。シンゴにもそのニュースが聞こえてきてはいたけれど、耳には入ってこなかった。移ろう画面を目が的確に追いかけていくだけだった。
今日の朝からシンゴはずっと上の空だった。
続き>>01-271~01-280「加速」まとめ読みへ
――“出会うのが遅かっただけ”
不倫を正当化するのによく使われるフレーズだ。
確かにそういうこともあるかもしれない。だとしても、やはり、きちんと離婚してから、向き合うべきだとシンゴは思う。そうでなければ、先に結婚した方がバカみたいではないか。
そして、奪われれば執着する。去られるよりもずっと。
シンゴはそこまで考えて、自分の考えを鼻で笑った。
自分がアスカに別れを切り出さないのは、アスカを愛しているからという理由が一番ではない。誰かに取られようとしているからだ、と気が付いたのだ。奪われそうになると惜しくなる。奪われるくらいなら、手放したくない。人間の人を愛するという思考はもしかしたらその程度なのかもしれない。
そんなことを考えながら、シンゴは尾行していた時に見たアスカとターゲットの姿を思い出していた。
あの二人は今、どんな関係でいるのだろう。
不倫をしているのだろうか。それとも、やはりアスカの仕事の邪魔になるから別れたのだろうか。それとも、何度か関係を重ねただけだろうか。
シンゴは色々な可能性を考えた後、考えるのをやめた。
溜め息をつき、気持ちをリセットすると、シンゴは再び文字を打ち始めた。
記憶は時に邪魔になる。忘れたいことですら、心の中のどこかに残っていて、ふいに過っては感情を逆撫でていく。
記憶は感情と直結しているのだということを意識するのはそういう時だ。
そして、それは小説を書いている時によく訪れる。
その度にシンゴは溜め息をついた。
イライラしたり、落ち込んだり、そういう自分に呆れてしまう。
記憶に対して一喜一憂するのはナンセンスだし、振り回される自分の弱さにもうんざりする。
シンゴはタイプする手を止めて、椅子にもたれた。椅子は軋み、少しだけ後ろにたわんだ。
少し離れたところから、パソコンの画面を見つめると、真っ白な画面に並んだ黒い文字が何かの模様に見えた。自分が書かなければ、画面は白いままだ。白い画面の上に自分が紡ぎ出す言葉が意味をなしていくのは、なんとも言えない喜びだった。
けれど、その喜びの為に自分は過去の出来事にもう一度傷ついたり、悩んだりしている。
その矛盾にシンゴは再び大きな溜め息をついた。
今日はあまり仕事が進まないらしい。
きっとアスカとターゲットのことが頭をもたげている所為だ。
シンゴはパソコンを閉めると、席を立った。
朝は規則正しくやってきて、シンゴの眠りを妨げた。窓の隙間から入ってくる朝陽にシンゴは目を細め、むくりと起き上がる。すでにアスカの姿はなかった。
リビングへ行くと、テーブルの上に朝食が用意されていた。こんなことは初めてで、シンゴは思わず二度見する。
キッチンパラソルの横にはメモが置いてあった。
“おはよう。仕事に行ってきます。朝ご飯作ったから食べてね。お味噌汁とご飯は自分で入れて下さい”
端正な字で書かれた文字をシンゴは二度読んだ。なんだか、メモに書かれていることが信じられなかったのだ。
そっとキッチンパラソルを開けると、そこには焼き鮭と小松菜のおひたしがあった。箸置きに置かれた箸の横には、味噌汁を入れる器と茶碗も伏せて置いてある。
シンゴはキッチンパラソルを元に戻すと、顔を洗いに洗面所へと向かった。
顔を冷たい水で洗い、鏡に映る自分を見て、溜め息をつく。冴えない顔だな、と思った。
そそくさと洗面所を後にすると、シンゴはキッチンパラソルの中から、味噌汁を入れる器と茶碗を取り出した。味噌汁の入った鍋を火にかけ、その間に茶碗にご飯をよそう。
味噌汁が温まったのを確認すると、シンゴは器に入れ、席へと着いた。
穏やかな朝だった。
アスカの焼いてくれた鮭は美味しかったし、小松菜のおひたしもほっとする味だった。
こうして、自分の幸せが少しずつ形成されていくに従って、シンゴはこの幸せがいかに不安定なものなのかを考えた。
アスカとターゲットが続いていれば、この幸せはいずれあっという間に姿を消してしまうだろう。
こんなにも落ち着かない気持ちでいるのは、精神衛生上良くないな、と味噌汁を啜りながらシンゴは思う。
だったら、一層のこと、アスカのケータイを見てしまおうか、とも考える。そうすれば、白か黒かはっきりして、このもやのかかったような生活とはさよなら出来る。
白であれば平穏に、しかし、黒であれば、地獄が待っているような気さえした。
シンゴは思い悩む。ふとシュレディンガーの猫の話を思い出した。
箱の中に猫が入っている。開ける前は猫が生きているのか死んでいるのか、確率は50/50(フィフティー・フィフティー)だ。けれど、箱を開けてしまえば、0か100しかない。
今の状況はそれに似ているとシンゴは思った。
アスカのケータイを見て、ターゲットとのやりとりがあれば浮気は継続されていることになる。けれど、ターゲットとのやりとりがなければ恐らく浮気は終わりを告げているだろう。
そこまで考えて、シンゴは「いや、待てよ」と思った。
アスカは仕事柄、用心深いに違いない。きっと、彼女はメールのやりとりをしていたとしても、その履歴が残らないように削除するはずだ。そして、削除したことを悟られないようメール数に違和感がないように細工をするに違いない。
シンゴはかぶりを振った。
そんなことを考えていても、何もいいことなどないのだ。
けれど、考えずにはいられない。
アスカとターゲットとの関係を知りたくて仕方がなかった。
それは嫉妬から来るものなのか、それとも、自分の平穏な生活や幸せを脅かされることに対する不安から来るものなのか、シンゴにはよくわからなかった。
しばらく考えた後、やっぱり……、とシンゴは思う。
このもやもやを解消する為にはアスカと向き合う必要があるのだ。
アスカの帰りはいつも通り早かった。最近は夕飯の時間には帰ってくる。食材を買ってきて、すぐに夕飯の支度をするアスカは甲斐甲斐しい妻の姿に見えた。
しかし、シンゴは手放しで喜べない。そこには裏があるような気がしてならなかったからだ。
疑惑はやがて確執へと変わってしまう。
シンゴはその前に何か手を打たなければと思った。
アスカが浮気をしていたという事実は許せない。けれど、一度きりの過ちならば――、何度か繰り返されていたのだとしても、今はもう終わっているのだとしたら、シンゴは許せるかもしれない、とも思う。
結局のところ、自分のところに戻って来るなら、それでいい、ということなのかもしれない。
真相はまだわからない。けれど、そろそろ、真相を明らかにするべき時期に来ているのでは、と思っていた。
自分の中で渦巻く感情を持て余しながら、シンゴはキッチンで忙しなく料理に勤しむアスカの姿を見つめていた。
この姿に嘘がなければいいな、と思いながら――。
アスカはキッチンで料理をしながら、束の間の休息を楽しんでいた。
仕事から解き放たれる家で過ごす時間は、今のアスカにとって唯一ほっと出来る時間だった。
今日の夕飯は肉じゃがだ。
野菜を切って、煮込み始めると肉じゃがの匂いが鼻先をかすめた。
キッチンからリビングのソファを見ると、シンゴがくつろいでいる。
何か思い詰めた顔をしているけれど、きっと小説のことを考えているのだろう、とアスカは敢えて声をかけなかった。
シンゴは優しい。
夕飯を作ると言ったアスカに僕がやるよ、と言ってくれた。
確かに一時期、ヒサシに心を奪われていたけれど、今はヒサシと関係を持たなくて良かったと思っている。ヒサシと関係を持ってしまっていたら、シンゴに申し訳ない気持ちが勝ってしまって、きっと今一緒にいることは出来なかっただろう。
浮気なんて一時期の気の迷いだ、ということをアスカは痛感していた。
アスカは肉じゃがと味噌汁が出来上がり、シンゴの名前を呼ぶ。
はっとして笑顔で食卓テーブルにやってくるシンゴを見て、アスカは幸せを感じていた。
シンゴが食卓に来て、アスカは微笑んだ。
「お待たせ」
「いい匂いがしてたから、お腹空いちゃったよ」
シンゴも心とは裏腹に微笑んだ。
アスカには訊きたいことが山ほどあった。けれど、今、それを口に出すことは出来ない。
シンゴは「おいしいね」と言って、肉じゃがを口に運ぶ。
アスカは何も気が付いていない。それがシンゴにとっては遣る瀬無かった。
「仕事はどうなの? 順調?」
前にも訊いたな、と思いながら、シンゴは口にする。
「順調よ。相変わらず。毎朝、カフェに通ってる。あともう一度くらい食事に行けば、もっと彼女とターゲットに近づけるんじゃないかなぁ」
アスカはそう言うと、味噌汁に手を伸ばした。
「じゃあ、そろそろ、今回の案件は片付きそう」
「そうね。時間的な制約もあるし、そろそろ終わらせないとまずいわね」
「早く今回の仕事が終わるといいね」
「頑張るわ」
アスカの微笑みを見て、シンゴはそれ以上何も言わなかった。
アスカに色々訊くのはこの案件が終わってからでいい、とシンゴは思っていた。それまでに自分がやらなければならないことはたった一つだけだった。
「いらっしゃいませー」
自動ドアをくぐると、気持ちの良い挨拶が聞こえてきた。レジにふと目を遣れば、そこにはユウキがいる。シンゴは適当に菓子パンと紙パックのコーヒーを手に取ると、レジに向かった。
「いらっしゃいませ。ストローはおつけになりますよね」
「ああ」
ユウキに言われて、シンゴは頷いた。
「最近、シンゴさん来てくれないから心配してたんです」
「心配?」
「だって、ほら、奥さんのこととかで何かあったのかなって」
「ああ……そのことなんだけど……」
「はい……?」
「今日、何時に終わる?」
「あと10分ほどで」
「じゃあ、いつもの公園で待ってる」
「わかりました」
ユウキはレジの後ろに別の客が並んだのを確認すると、手際良く、会計をした。
シンゴは商品とおつりを受け取ると、ユウキといつも会っている公園へと向かう。
のんびりと歩きながら、穏やかな景色に視線を漂わせた。
自分以外の人はいつだって、幸せそうに見えることにシンゴはもやもやした気持ちを抱えていた。
勿論、シンゴだって、傍から見れば幸せそうに見えていることに変わりはない。
仕事があり、住むところがあり、結婚もして奥さんとは大きなケンカもない。
けれど、それは表面上のことであって、シンゴの内面は不幸せだという気持ちでいっぱいなのだ。人の心の奥底まではわからないな、と自分のことと照らし合わせながら、シンゴは思う。
結婚して奥さんはいる。けれど、その奥さんが浮気しているかもしれない。それは決して幸せとは言い難い。
シンゴはいつものベンチに腰を下ろすと、芝生に視線を向けた。今日は芝生には誰もいない。
犬も飼い主も、無邪気に遊ぶ子どもの姿もそこにはなかった。
ただただ目の前に広がる芝生を見つめながら、シンゴはユウキが来るのを待った。
ケータイをパンツのポケットから取り出し、時間を確認する。
身支度をして、公園まで来るとなると、あと十五分くらいはかかりそうだな、と思いながら、シンゴはケータイをポケットにしまった。
袋の中には紙パックのコーヒーと菓子パンがある。
お腹は空いていたけれど、ユウキが来るまで待っていようと思った。きっとユウキが逆の立場なら、そうしてくれるだろう、と思ったからだ。それに一緒に食べる方が一人で食べるよりはいくらか美味しく感じられるだろうとも思った。
続き>>01-261~01-270「加速」まとめ読みへ
「彼のその一言があったから、私は笑顔でいられるし、毎日を楽しく過ごせるんだと思います」
レナの「毎日を楽しく過ごせる」という言葉にアスカはさすがに口を開いた。
「でも、あなたが楽しく過ごせる裏には、悲しんで悩んでいる人がいるかもしれないのよ。あなたとの浮気が奥さんにバレているとしたら、その奥さんは……」
「わかってます」
「……」
アスカが皆まで言い終えるより早く、レナはぴしゃりと言った。驚いてアスカは口を噤む。ピッツァが窯から取り出される音がふいに聞こえた。周りのどこか楽しげな雰囲気に気が付いて、自分たちがしている話の深刻さがなんだか現実のことではないような気がしてしまう。
「わかってるんです。奥さんにバレているとしたら、これほど、奥さんにとって辛いことはないだろうってことは」
レナは俯いたまま言う。
レナはレナで不安を抱え、悩んでいるのだ。アスカは感情のままに言ってしまったことを悔やむ。レナの気持ちを刺激しすぎてしまうのは、得策ではない。いかに自分が味方であるかを認識させなければならないのだ。レナを追及し、謝罪させる為にアスカは話しているのではない。レナをヒサシから引き離す為にアスカは話しているのだ。
冷静になろう、とアスカは深呼吸をした。それをレナは溜め息だと感じたのか、アスカの顔を見る為に顔を上げた。
「あなたも悩んでいるのね」
レナの視線に気が付いて、アスカは取り繕うように言った。
「はい……」
再び、レナは俯く。
ここから、自分が味方である、ということを上手くレナに認識させていかなければならない。アスカは気持ちを落ち着ける為に水を飲んだ。
「あなたはどうしたいの?」
「えっ……。どうしたい……ですか?」
「そう。これから、彼とどうなりたいと思ってる?」
困ったように視線を泳がせるレナにアスカは質問を重ねた。
レナはしばらく考えた後、ぽつりとつぶやくように「一緒にいたいです」と言った。
それがレナの本心なのだろう。体面を気にしているとしたら、「一緒にいたいけど、別れないといけない」となるはずだ。
「本当に彼のことが好きなのね」
「はい……。どうしようもないくらい」
素直にこんなことが言えるというのは、若い証拠だな、とアスカは思う。レナは自分より少し年下なだけだったが、二十代前半と二十代後半では明らかにモノの捉え方が違う。そして、考え方や発言だけでなく、身の振りも随分と変わったな、とアスカは思った。
私も年を取ったなぁ、とレナと話しながら、アスカはしみじみ思う。
「アスカさんは不倫していた彼と別れる時、辛かったですか?」
「辛かったわよ。だけど、どこかで安心もしたわ。もう周りの視線を気にしなくていいんだって。あなたにもない? 友達にも家族にも言えなくて、奥さんに見つからないようにこそこそ会う……なんて言うのかな。肩身の狭さっていうか」
「わかります……。いつもデートをする時は、この付近じゃ会えなくて。少し遠いバーに行ったり、メジャーなレジャースポットは避けたり。私は良くっても、彼が彼の奥さんとか奥さんの友達に会うかもしれないってことをとても気にしていて……」
「だったら、デートなんてしなきゃいいのにって思わなかった?」
「思いました。もっと堂々としていてよって」
レナは少し唇を尖らせ、拗ねたように言う。アスカはそんなレナを見ながら、バケットに手を伸ばした。オイルソースを絡め、口に放り込む。レナもイライラを紛らわせるように同じようにバケットを口に運んだ。
「不倫って難しいのよね。お互いが結婚していたら、納得もいくかもしれないけど、片方が独身だと独身の方はいつだって待たされているような気になる。だけど、その不満を口にすれば、この関係が終わってしまうかもしれない……。そう思うと、何も言えなくなってしまうのよね」
「そうなんです。だから、私……。彼に不満を言ったことは一度もありません」
「それが賢い立ち回り方だと思うわ。彼を失いたくないのならね」
「でも……どこかでわかってるんです」
「えっ……?」
レナの言葉にアスカはわざと聞き返す。レナが続ける次の言葉をアスカはわかっていた。
「いつかは彼と別れなきゃいけいなってこと」
アスカはレナのその言葉を聞いて、にっこり微笑んだ。
「わかってるんじゃない」
「わかってます。でも……今はまだ別れたくない」
「思う存分、納得の行くまで付き合うといいわ。彼から別れを告げられるのがいいか、自分から別れを告げるのがいいかにも寄るけれど」
アスカはそう言って、優しい眼差しをレナに向けた。
アスカは帰宅すると、ソファにどかっと腰を下ろした。
レナとの食事はひどく疲れた。神経を使い過ぎたのかもしれない。
風呂から上がったばかりのシンゴは、ソファに座るアスカを見て驚いた。
「今日は遅くなるんじゃなかったの?」
「十分遅いわよ」
アスカは壁に掛かった時計を見て言う。確かに時計は二十三時を指していた。
「ああ、バーで働いてた時のことかあるから、この時間でも早く感じるんだね」
シンゴは一人頷く。
「確かにまだ日付越えてないものね」
アスカはソファのへりに突っ伏した。
「どうしたの? やけにお疲れじゃない。何か飲む?」
キッチンからミネラルウォーターを取り出しながら、シンゴは言った。
「私にもお水頂戴」
「うん」
シンゴはミネラルウォーターを二本手に持ち、ソファに座った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
アスカはシンゴからミネラルウォーターを受け取ると、キャップを開けた。
「仕事、大変だったの?」
「えぇ、不倫相手と食事に行って来たの」
「その食事、上手くいったの?」
シンゴもミネラルウォーターを飲みながら、アスカに問う。
「多分、上手くいってると思う。彼女、自分から不倫のことを話してたし、これからどうしたいかとか何に悩んでるかも聞いたし……」
「順調そうだね。このまま、不倫相手がターゲットと別れるように仕向けられたら、この仕事も無事終わりだね」
「そうなんだけど、そう簡単にいくかなぁ」
アスカは天井を見上げた。天井の一点をぐっと睨みつけたまま、眉間に皺を寄せている。
「どうして? そこまで上手くいっているなら、問題ないんじゃないの?」
「そうなんだけど、ちょっと不安に思ってることがあってねぇ」
アスカはそこまで言うと、シンゴを見た。
「不安なことって?」
シンゴは不思議そうに問う。
「若さゆえの暴走っていのうかなぁ。若いからこそ、出来ることってあるじゃない? そういうのがありそうで不安なのよ」
「たとえば?」
「突然、奥さんのところに行って、全部ぶちまけちゃったりとか、子ども作るようにしむけて作っちゃったりとか」
「そんなことするかなぁ」
「する女なんて腐るほどいるわよ。その男が欲しいって思ったら、手段なんて選ばないってパターン、今までいくつも見てきたもの」
「それは怖いね」
「でしょ。それやられちゃうと、私たちですら、手が付けられないことがあるのよ」
「どうして?」
シンゴはミネラルウォーターを飲む手を止めて訊いた。
「男の方が情にほだされちゃって、奥さん捨てて、子どもの出来た不倫相手と結婚しちゃうのよ」
アスカは溜め息混じりに答える。
「まぁ、わからなくもないかなぁ……」
シンゴの言葉にアスカはシンゴを睨みつけた。
「ほら、やっぱり」
「何怒ってるんだよ」
「男ってそういう生き物なのよね。弱く見える方に流されて行く」
「えっ?」
「そういう女は弱く見えるだけで、計算高くて強い女なのよ。浮気されていることがわかっても、直接旦那に言えない方がよっぽど弱い女よ。その区別もつかないんだから、ホント男ってバカ」
「……何か嫌な思い出でもあるの?」
「別にそういうわけじゃないけど」
アスカは否定したけれど、シンゴは怪しいと思った。けれど、今、これ以上訊けば、火に油を注ぐことになりかねない。シンゴはそれきり黙って、アスカが喋り出すのを待っていた。
「でも、あの子なら、そういうことはしないかなぁ……」
アスカはぽつりと呟いた。
「どうして、そう思うの?」
「いいコなのよね。基本的に。本来なら、不倫なんてしなさそうなタイプなのよ。人のモノを奪おうってタイプのコじゃないの」
「でも、不倫してるんだろう?」
「そうなのよ。だから、何か理由があるんじゃないかなぁって」
アスカは今日のレナとの会話を思い出していた。
何かが引っかかる。けれど、何が引っかかっているのか、アスカにはまだわからなかった。
「それじゃあ、随分と佳境に入って来たってことだね」
「そうなるわね」
「それで疲れてるんだ」
「そうなの」
アスカはそこまで言うと、ミネラルウォーターを一気に飲み干した。あっという間に、半分が減っていた。
「でも、理由って?」
「それがわからないから悩んでる」
「そこまでは聞き出せなかったの?」
「ええ。さすがに一度に全部情報を引き出すのは無理だし、危険だわ。段階を一つずつ踏まないとね」
アスカは溜め息混じりに答える。
「アスカのことは疑ってないの? 自分とターゲットを別れさせに来たんじゃないかって」
「多分、それはないと思う。そう思ってたら、自分のことペラペラ喋らないでしょ。不倫してるって自分から告白するメリットがないもの。あの子はきっと誰かに自分の苦しみをわかってもらいたかったんじゃないかなぁ」
「不倫をしてるのに、苦しみをわかってもらいたいなんて、随分勝手じゃない?」
シンゴはアスカとターゲットとの関係を思い出し、思わず感情的になる。
「そうねぇ。でも、人間なんてそんなものでしょ」
アスカはさらっと言ってのけた。
その一言にシンゴは押し黙る。
確かに勝手なのが人間だ。だけど、不倫をしているアスカにその言葉を言われるのは腹立たしかった。
シンゴは口を閉ざし、アスカから視線をそらす。イライラを落ち着かせようと、小さく深呼吸もした。そんなシンゴに気付かず、アスカは続ける。
「何にせよ、今回はここまででね。彼女とターゲットを別れさせるにはもう少し時間が必要だわ」
「でも、期限を考えたら、そんな悠長なことも言っていられないんじゃないの?」
「そうなのよね……。だけど……」
そう言って、アスカは黙り、何か考えているようだった。
「そう言えばさ」
シンゴは言うか言うまいか悩んだ挙句、口を開いた。
「ターゲットとはその後どうなの?」
シンゴは口にしてからしまった、と思った。
これじゃあ、まるで、アスカとターゲットの関係を知っているみたいではないか。シンゴはアスカが自分の言葉の意味を素直に受け取ってくれるようにと願った。
「その後どうって、最近は接触してないからわからないわね」
アスカは考え込むような素振りを見せながら言った。
どうやら、シンゴの心配は杞憂に終わったようだ。
「そっか。それじゃあ、俺はそろそろ仕事に戻るよ」
「そう。頑張ってね」
アスカはシンゴに笑顔を向けた。
シンゴは書斎に戻ると机に向かった。スリープしていたパソコンを立ち上げ、書き途中の小説を読み返す。見つけた誤字脱字を直しつつ、気になる言い回しも書き直していく。そうして、途中のところまでやってくると、シンゴは新しい文章を紡ぎ始めた。
パソコンの画面に向かいながら、アスカの話していたことが頭を過る。
アスカはレナをイイコだという。けれど、不倫をするのにイイコなんておかしいではないか。明らかに欲しがってはいけないとわかっているものを欲しがっているのだ。
そして、現在、その欲しがってはいけないとわかっているものを手にしている。手にしている――というよりは、奥さんとシェアしていると言った方が近いかもしれない。
どちらにせよ、不倫なんてする女の子がイイコという表現を用いられて、語られることにシンゴは違和感を覚えていた。彼女はイイコなんかではないのだ。
しかし、それと同時にシンゴはよく耳にする都合のいいフレーズを思い出してもいた。
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