小説「サークル○サークル」01-111~01-120「加速」まとめ読み

シンゴは久々にノートパソコンの電源を入れた。起動音が懐かしい。真っ暗な画面が点滅し、やがてパスワードの入力画面が出た。シンゴはパスワードを入力すると、メーラーを立ち上げる。読まれていないメールはゆうに百を超えていた。仕事関係者からのメールから読もうと、日付順から差出人順にメールを並べ替えた。けれど、いくらスクロールしても、仕事関係者からのメールは見当たらなかった。
「……こんなもんだよな……」
シンゴは溜め息をついて、シャットダウンもせずにノートパソコンを閉じようとした。いくらスクロールしたって、仕方がない。しかし、シンゴがノートパソコンを閉じようとしたその瞬間、見覚えのある名前が目に飛び込んできた。
「嘘……だろ……」
言葉が掠れ、自分の動揺にはたと気付く。画面にはシンゴが小説を書けなくさせた張本人の名前があった。
急速に速まっていく鼓動を落ち着けようともせず、シンゴは急いでその差出人からのメールをクリックした。

息を止めて、シンゴはメールの本文に目を通す。そこには相手の近況と仕事の依頼をしたいという内容が書かれていた。
「まさか……」
シンゴは信じられないといった面持ちで、再度メールに目を通した。何度読んでもメールには仕事の依頼について書かれていた。シンゴは高鳴る胸を落ち着けようと、席を立ち、コーヒーを淹れた。ミルクをたっぷり入れて、口をつける。そして、もう一度、画面を見た。そこには先程、二度読んだメールが表示されている。シンゴはマグカップをパソコンの隣に置くと、キーボードに手を伸ばした。
なんて書こうかなんて考えてはいなかった。けれど、書くべきことは一つしかない。仕事を請けたい、それだけだ。勿論、今のシンゴに小説が書けるのかなんてわからない。書こうとしても書けないかもしれない。けれど、いつまでも書けないと立ち止まっているわけにはいかないのも確かだ。
差出人の名前を見て、シンゴは大きく息を吐く。酸素が身体中を駆け巡るような気がした。呼吸を整えると、シンゴは元妻にメールを書き始めた。

「やけに機嫌がいいわね」
アスカはいつもよりどことなく、浮かれ気味の夫を目の前にして、訝しげに言った。
「そんなことないよ」
シンゴはそう言いながらも、自分の頬がにやつくのを感じていた。
「そう……」
アスカはシンゴが何かを隠していると思ったけれど、それ以上は追及しなかった。シンゴに限って、浮気なんて芸当は出来ないだろうし、きっとシンゴが喜ぶことなのだから、些細なことだろうと思ったのだ。
シンゴはアスカが追及してこないことに少しの物足りなさを感じたが、その反面、ほっとしていた。本当ならば、すぐにでも仕事の依頼が来たことをアスカに伝えたかったけれど、依頼が来ただけであって、その仕事が確定したわけではない。依頼があっても仕事の依頼が流れてしまうことがあるのも、この世界では珍しいことではなかった。流れてしまえば、ぬか喜びさせてしまうことになる。それはアスカにとっても、シンゴにとっても、良いことだとは思えなかった。シンゴは仕事が確定したら、アスカに報告しようと決めていた。

シンゴは浮かれながらも、アスカの様子をしっかりと観察していた。今日のアスカは特に浮き沈みはないように感じられた。帰ってきた時間を考えても、きっとターゲットと食事に行ったり、それ以上の関係を持ったりはしていないだろう。そう思って、胸を撫で下ろした。
シンゴにとって、女性はアスカだけであり、離婚なんてことになったら、精神的にも経済的にも困窮することは目に見えていた。何があっても、離婚は避けたい。困窮したくないのは勿論のことだが、離婚したくないのには他にも理由があった。
離婚をすれば、心も身体もボロボロになってしまう。まるで、使い古された雑巾のようにだ。あの何とも言えない心の奥底のもやもやとした感情は、失恋なんか足元にも及ばない程の破壊力を持っていた。そんな思いを味わうのは一度だけで十分だった。仕事柄、どんなことを経験しても無駄にはならない。経験が作品に繋がっていくし、経験したことを書けば、作品にリアリティが出てくる。だが、作家と言えど、人間だ。経験したくないことだってある。それがシンゴにとっての離婚だった。
離婚の原因は元妻の仕事にあった。彼女の仕事は編集者だった。しかも、担当していたのは、シンゴだ。彼女は、良き妻であり、良き編集者だった。けれど、そのことがシンゴを苦しめた。元妻はシンゴには勿体ないくらい出来た人だった。消極的なシンゴに対し、恋愛でも仕事でも積極的だったから、消極的なシンゴが恋愛をし、結婚出来たのは彼女のおかげだったとも言える。年上でしっかりしていて、シンゴは甘えっぱなしだった。無論、そこに原因などあるはずもなかった。原因はシンゴの心の持ちようだった。仕事でもプライベートでも、シンゴは担当編集者といると思ってしまっていたのだ。元妻がただの妻に戻る瞬間をシンゴは見つけられなかった。そうなってくると、プレッシャーしかない。そのプレッシャーを外で発散させれば良かったのかもしれないが、シンゴにはそんな器用なことは出来なかった。そのことがシンゴを兎に角苦しめた。自分の心が安らぐ場所がどこにもなく、結局、シンゴは悩んだ末、離婚という選択肢を選んだ。
そして、シンゴは作家として、機能しなくなった。

シンゴが作家として機能しなくなった理由は二つある。一つ目は優秀な編集者を失ったこと、二つ目は離婚のショックが思いの外、大きかったことだ。このどちらもが彼が作家として生きていくことを難しくさせた。作家はそれ単体で生きているわけではない。勿論、作品を書いている時は一人での作業だが、作品をチェックし、より良いものへと昇華させるには担当編集者の力が必要だ。一概には言えないが、担当編集者によって、良くも悪くもなる部分がある。本来なら、依存関係にはないものの、シンゴは自分の妻であるという身近な存在だった為に、いつしか通常の作家と担当編集者というだけの関係を越えすぎてしまっていた。精神的にかなり寄りかかっていた彼は離婚するまでそのことの大きさに気が付いてはいなかった。けれど、元妻は一切そのことについて触れることはなかった。内心、重く感じていたのかもしれない。それでも、シンゴへの愛情が途切れることはなかったから、じっと耐えていてくれたのかもしれない。なのに、シンゴは元妻に離婚を切り出した。元妻は最初頑なに別れたくないと言い、考え直してほしいとも言った。しかし、嫌だと言われれば言われる程、シンゴは別れたくなっていった。そうして、元妻の意見が聞きいれられることはなかった。

シンゴにとってはこれで肩の荷が下りて、清々しい生活が戻り、もっと小説に打ち込めると思っていた。けれど、実際は違った。全く書けなくなったのだ。こんなはずはない、そう思った。しかし、何度パソコンに向かっても、何も浮かばなかった。原因が良くわからなかったけれど、そう言った日々が長く続くにつれて、元妻の存在が自分にとってどれだけ大きな存在だったのかを知ることになった。勿論、元妻の代わりに新たな担当編集者が寄越されたが、元妻とは比べ物にならないくらいポンコツだった。元妻がいかに出来た担当編集者だったのかも同時に思い知り、どん底に落ちた気分を味わった。そこから、シンゴは小説を書けなくなった。小説が書けなくなったからと言って、仕事をしないわけにもいかない。生活をしていかなければならなかったから、コラムやエッセイなどの連載をいくつか掛け持ちし、生計を立てた。それだけではままならなかったが、幸いにもそれまでの著作の印税がシンゴの生活を助けてくれていた。テレビドラマとまではいかなかったが、運良く、ラジオドラマ化はされ、二次使用料も入ってきて生活に困ることはなかった。

やがて、アスカに知り合うけれど、その時はすでにシンゴはうだつのあがらない作家だった。それでも、彼女はシンゴを愛してくれたし、シンゴも彼女を愛していた。自分の仕事の状況を考えると不安しかなかったけれど、シンゴは意を決してプロポーズをし、めでたく彼はアスカと結婚出来ることとなった。しかし、不幸にもその数日後、持っていた数本の連載が改変期と共に全て消えてしまった。シンゴは仕事はなくなったものの、アスカと結婚していた為に生活が出来なくなるという非常事態を避けることが出来た。ただアスカにとっては災難だったとしか言いようがない。勿論、シンゴはそのことをとても申し訳なく思っていた。
けれど、不思議なものでそういった感覚と言うのは、日に日に麻痺してくる。その証拠にシンゴは小説を書かず、家事に勤しんでいた。家事のやりがいや楽しさに気付いたシンゴは、急激にのめり込んでいった。作家というよりは、主夫だ。シンゴの手の込んだ料理はその頃のなごりだった。
このままではいけない気持ちが全くなかったわけではない。いつだって、シンゴの心の片隅には危機感があった。だからこそ、彼は小説を書こうと何度も試みた。試みるだけで終わってしまったのは、彼にやる気がないのではなく、それが上手く実を結ばなかっただけだったのだ。

翌日、シンゴは小説を書く為にパソコンを開いた。まだ何を書いていいのかもわからない。書きたいこともない。ただ何もしないわけにはいかなかった。書けないなりに努力は必要だとも思った。ふいにシンゴは外付けHDDの一つのフォルダに目を止めた。「新しいフォルダ」と書かれているそれに見覚えがなかった。ダブルクリックをし、中身を表示させると、一つのワードファイルが入っていた。不思議に思って開けてみると、たった一文だけ、こう書かれていた。
『僕の奥さんは別れさせ屋で働いている――』
アスカが今回の仕事を始めて、様子がおかしくなった当初に書こうとした小説だった。
ユウキに話した話はあながち嘘ではなく、自分が書こうとしていたのを忘れているだけだったのだ。シンゴはなんだか嬉しくなった。数週間前の自分に思わず「でかした!」と言いたくもなった。
深呼吸をして、気持ちを落ち着けると、シンゴはパソコンに向かって、続きを書き始めた。

アスカは悩んでいた。マキコから依頼の再開を告げられたのは嬉しかったし、安心もした。けれど、どこかもやもやとした感情がお腹の下の方で渦巻いているのを感じていた。なんとも言えない嫌な感じだ。
煙草に火をつけ、くゆらす。吐き出した煙はしばし空気に滞留して、ふわりと消えた。机の上に足を上げ、天井を見上げる。浮かぶのはヒサシの顔だ。思わず、目を伏せた。自分の感情が上手くコントロール出来ないことに苛立ちを感じながらも、アスカにはどうすることも出来なかった。
ヒサシを不倫相手と別れさせるのが、アスカの仕事だ。けれど、別れさせれば、ヒサシはマキコの元に戻るだろう。子どもがいるのなら、尚更だ。アスカのつけいる隙はない。だいたい、アスカだって結婚をしていて、シンゴがいる。それでも、ヒサシに心惹かれてしまう自分に溜め息をついた。
理屈では割り切れない。だから、人は恋をするのだ、と誰かが言っていたのを思い出していた。

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