小説「サークル○サークル」01-393. 「加速」

 アスカは事務所に着くと、いつものようにお湯を沸かし始める。煙草に火を点け、脚を組むと机に置かれている書類に目を通し始めた。
 他の所員が関わっていた案件が無事終了したということは、電話で連絡を受けて知っていた。その詳細がこの書類には書かれてある。
 あとは私の案件が終われば、清々しく年が越せそうね……とアスカは思う。
 もう一息で、アスカの関わっている案件は完遂される。けれど、そのあと少しが上手くいくのかどうかがずっとアスカの心の中で引っかかっていた。
 やかんがお湯が沸いたことを甲高い音を鳴らして知らせる。アスカは煙草を灰皿に置くと、立ちあがった。
 いつものようにやかんから、ポットにお湯を入れる。茶葉が踊るように渦を巻いた。
 ぼんやりとポットをを見つめていると、お湯が少しずつ紅茶の色に染まっていく。
 アスカはそのまま三分間じっと見つめ続けていた。
 その間に彼女が考えていたことは、レナのことでもヒサシのことでも、マキコのことでもなかった。
 自分の夫であるシンゴのことだった。

小説「サークル○サークル」01-392. 「加速」

シンゴが書斎に行き、メールを確認すると、担当編集者である元妻からメールが来ていた。
開封すると、“確認しました。大筋はいいと思います。詳細については、ゲラをお送りするのでご確認下さい”と書かれてあった。
大筋に問題がないということは、内容に関して大きな修正がないということだ。シンゴはほっと胸を撫で下ろす。
自分の書く作品にはいつだって、不安はつきものだ。
自分が面白いと思ったって、それを最初に読む編集者が面白いと感じるかどうかはわからない。ましてや、今回はプロットの提出もなかったのだから、尚更不安だった。
シンゴはメールの返信を終えると、伸びをした。椅子が軋む。
これで当分はゲラチェックに時間をかけることになるだろう。
アスカにも良い報告が出来ることにも、シンゴはほっとしていた。
さて、とシンゴは思う。
新作のプロットを書く為にシンゴは再びパソコンに向かった。
今度はどんな話にしようか、と思いを巡らせる。
純愛ものでもいいし、ミステリーでもいい。今なら、どんな話でも書ける気がした。

小説「サークル○サークル」01-391. 「加速」

 こんな当たり前の夫婦の朝をシンゴは幸せだと感じていた。
 少し前まではこんな光景は想像すら出来なかった。
 ターゲットはレナと別れることを渋っているようだけれど、しっかり別れてもらわなければいけない、と思う。そうでなければ、今の幸せは消えてしまうからだ。
 男として自信があればいいけれど、シンゴには男としての自信は皆無と言ってもいい。それくらい、男としての自分に自信がなかった。
 ヨーグルトを食べながら、シンゴはふと手を止めた。
「仕事、上手くいきそう?」
「上手くいかせるわ。シンゴにも考えてもらったもの」
「うん、頑張って」
「ありがとう。レナの幼馴染にも協力してもらえることになったし、あとはターゲットの出方を見るだけ」
「そうだね。健闘を祈るよ」
 シンゴの言葉にアスカは力強く頷いた。

 アスカは食事の後、身支度を整えると、事務所へと向かった。
 シンゴはアスカを見送って、大きな溜め息をつく。
 男として自信があれば、きっとこんなもやもやした気持ちを抱かずに済むのだろう。
 シンゴはもう一度溜め息をつくと、書斎へと入っていった。

小説「サークル○サークル」01-390. 「加速」

「じゃあ、僕はメロンパンにしよう」
 そう言って、シンゴはアスカにチョコクリームパンを手渡し、自分はメロンパンを手に取った。
「足りなかったら、これも食べていいからね」
 シンゴは言って、ベーコンマヨネーズパンを指差した。
 アスカは「うん」と答えて、シンゴを見る。二人は黙ったまま、パンの袋を開けると、かじりつき始めた。
 時折、パンの袋のカシャカシャという音と咀嚼音がするだけだった。シンゴはぼーっとしながら、食事をするアスカをたまにちらりと見ていたけれど、話しかけはしなかった。
 今のアスカに何かを言っても、明確な返答が得られそうになかったからだ。
 二人はほぼ同時にパンを食べ終わる。
「もう少し食べる?」
 シンゴの問いにアスカはしばらく考え込んだ。
「ヨーグルト食べようかな。シンゴもいる?」
 アスカは立ち上がり、シンゴを見た。
「うん、じゃあ、僕も」
 シンゴの返事にアスカは冷蔵庫までヨーグルトを取りに行く。アスカはヨーグルトの蓋を取ると、スプーンを添えてシンゴの前に置いた。

小説「サークル○サークル」01-389. 「加速」

 家に帰って来ても、まだアスカは寝ていた。シンゴはいつものように朝食の準備を始める。
 シンゴがお湯を沸かしていると、寝室のドアが開く音が聞こえてきた。
「おはよ……」
 アスカはぼーっとしたまま、シンゴを見る。
「おはよう。二日酔いは大丈夫?」
「うん」
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「紅茶」
「顔洗っておいで」
 シンゴはアスカにそう言うと、にっこりと微笑んだ。アスカはシンゴの微笑みに小さく頷くと、ぼーっとしたまま、洗面所へと消えていく。
 しばらくすると、顔を洗って、さっきよりはすっきりとした表情を浮かべたアスカが戻ってきた。無言のまま、いつもの席に着くと、シンゴが紅茶を運んでくれるのをじっと待っている。
「お待たせ」
 シンゴの言葉にアスカは「ありがとう」と答えると、シンゴが席に座るのを静かに待っていた。
 シンゴはコーヒーを入れたカップを持って、席に着くと、目の前にある菓子パンを見て「どれがいい?」とアスカに訊いた。
「チョコクリームパン」
 あれだけ飲んだのに、やっぱり、アスカはそれを選ぶのだな、とシンゴは内心感心していた。


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