小説「サークル○サークル」01-31~01-40.「作戦」 まとめ読み

 アスカはそっと目を開け、天井を見つめる。今日も1日が始まった。隣に視線を移せば、すでにシンゴはいなかった。きっと朝食でも作っているのだろう。
 アスカはベッドから抜け出して着替えると、顔を洗って、リビングへと向かった。リビングに行くと、アスカが予想した通り、シンゴが朝食を作っていた。食卓テーブルの前に立つと、味噌汁と焼き魚の匂いがアスカの鼻先をつく。起きたばかりだというのに、彼女の食欲は刺激された。
「おはよう」
 シンゴはアスカの気配に気が付き、後ろを振り向いて言う。
「おはよう」
 アスカはぼーっとしたまま、食卓テーブルの前に立ち尽くす。昨日、置かれていたビーフシチューはすでに片付けられていた。
「もう出来るから、座って待ってて」
「……うん」
 アスカは椅子に座って、シンゴの後ろ姿を見つめる。いつから、この背中にときめかなくなってしまったのだろう。結婚する前はシンゴの後ろ姿にさえ、ときめきを覚えていた。すぐ近くにいることがとても嬉しかった。けれど、今はなんとも思わない。ただそこにシンゴがいる、という事実だけが存在し、それ以上何も思うことが出来なかった。

「お待たせ」
 シンゴは全ての料理をテーブルに並べると、アスカに笑顔を向けた。アスカの気持ちが遠く離れているのに、シンゴはそうではないようだった。
「いただきます」
 シンゴが席に着くのを待って、アスカは小さな声で言った。頭はまだ若干ぼーっとしていたが、味噌汁にそっと口をつける。温かな液体が身体の奥深くに沁み渡った。こういう時、日本人で良かった、とアスカは大袈裟に思う。
「昨日、随分、遅かったみたいだね」
 シンゴは遠慮がちに言った。
「今、仕事が忙しいの。潜入でバーで働くことにしたから」
「バーで!?」
「どうしたの? 何か問題でもある?」
「えっ、いや……。アスカがバーで働くなんて、予想外だったから……」
「そう? 結構、いい感じよ」
「そうなんだ……。別れさせ屋は大変だね……」
 シンゴはそれきり口をつぐんで、焼き魚に箸を伸ばした。シンゴにとって、バーで自分の妻が働くということは、出来れば避けたいことだと思っていた。何度かシンゴもバーに行ったことはあったが、見ず知らずの人とも気軽に話せるし、店員とも会話を楽しむことが出来る。それが魅力でもあり、シンゴ自身楽しくもあったが、自分の妻がそういった場所で働くというのは、また別の話だった。ささやかなヤキモチだ。
 シンゴは焼き魚を食べながら、アスカの顔をそっと盗み見た。近くにいるのに、少しだけアスカを遠くに感じていた。

 シンゴの気持ちなど気付くわけもなく、アスカは食事を終えると事務所に向かった。別れさせ屋の仕事は、バーでヒサシの監視をするだけではない。別の案件の進捗具合も把握し、仕事が順調に進んでいるかをチェックしなければならなかった。
 アルバイトの作った書類に目を通しながら、アスカはキッチンへと向かう。紅茶を淹れて、カップに口をつけながら、彼女は再び椅子の上に踏ん反り返った。
「あともう少しで、この案件は片付きそうね……」
 書類に目を通したことを知らせるサインを書くと、アスカは机の上に足を乗せた。お世辞にも行儀が良いとは言えなかったが、彼女が考えごとをする時はいつもこうだった。
机の上に無造作に置かれた煙草を手に取ると、灰皿の横に置かれたライターで煙草に火をつけた。いつからだろうか。煙草がないと生きてはいけないと感じたのは。昔は煙草なんて吸わなかった。健康のことを気遣っていたし、煙草を吸う他人に嫌悪感すら抱いていた。それなのに、今では1日に何本もの煙草を灰皿に押しつけている。
 些細なきっかけで、人の心は揺さぶられ、知らず知らずのうちに深みにハマっていく。アスカにとって、それが煙草だった。そして、それは恋愛も一緒なのだと、ふと彼女は思って苦笑した。

 時間が来ると、アスカはバーへと向かった。相変わらず、商店街は賑わっている。
 ある程度、状況証拠を掴み、ヒサシと個人的に接触出来るようになったら、次はヒサシの浮気相手に接触しなければならない。本来ならば、同時進行でやりたいところだったが、いかんせん、エミリーポエムには人がいない。アスカは出来る限り、自分で出来ることは自分でやらなければならなかった。今までそれでどうにかやってこられはしているが、時々アスカはどうしようもない疲労感に襲われる。そんな時、彼女は年齢を思い知らされた。仕事を分担したい、と心底思ったが、今更、弱音を吐くのはどうかしている、とも思う。自分がやらなければ、誰かがやってくれるものではないということを一番よくわかっているのはアスカ自身だったからだ。
 バーに行く道すがら、アスカは自分の格好に視線を落とした。別れさせ屋として、事務所にいる時は大して気になんてしなかったが、バーで働くとなると、別だ。多くの人に出会い、多くの人に見られる。それには、事務所にいる時とは違った緊張感があった。カウンターにいると、まるで値踏みをされているような気分になることさえある。そんな気持ちになるのは、自意識過剰だとわかっていたけれど、自分は女である、と自覚する瞬間でもあった。

 昨日と同様、アスカはバーの仕事をしながら、ヒサシをまだかまだかと待っていた。
 ヒサシがこのバーの常連だとすれば、昨日の接触で新しい店員が入ったという認識が生まれたはずだ。これを使う手はない。アスカは頭の中で自分を印象づける為に今日は時間を使う予定だった。
 しばらくして、バーのドアが開いた。ドアベルが鳴り、アスカはふいに顔を上げる。「いらっしゃいませ」と入って来た客に笑顔を向けた。アスカの笑顔の先にはヒサシが立っていた。
 ヒサシは笑顔を返すと、昨日と同じ席に腰を下ろす。今日は女を連れていない。待ち合わせでもしているのだろうか。
「いらっしゃいませ。おしぼりをどうぞ」
 アスカは昨日と全く同じセリフでヒサシを迎えた。
「ありがとう」
 昨日とは打って変わって、ヒサシはアスカにやわらかい口調で応えた。一体、どういう風の吹き回しだろう、とアスカは思ったが、笑顔を崩さずに「ご注文はお決まりですか?」とヒサシの顔を覗き込んだ。すると、ヒサシはメニューを見ずに「ジントニックを」とだけ言った。
 アスカはオーダーを通すと、ヒサシのところにお通しのスープを持っていこうと、ちらりとヒサシを盗み見た。ヒサシはアスカが振り向いたのとほぼ同時に腕時計に視線を落とし、一瞬眉間に皺を寄せる。そのしぐさから、アスカはヒサシが女と待ち合わせをしていることに気が付いた。

「お通しでございます」
 アスカは昨日と同じようにスープをヒサシに出す際、しっかりとヒサシの目を見て微笑んだ。
「ありがとう」
 昨日は女がいた所為かはそっけなかったヒサシだったが、今日は何をするにもやけに愛想が良い。ヒサシの笑顔は女心の奥の方をくすぐる何かがあった。きっと普通の女なら、昨日と態度が違うことくらいあっという間に許せてしまうだろう。しかし、アスカはただ冷静に「嫌なヤツ」と思っただけだった。
「君、新しく入ったコだよね?」
 ヒサシの前を離れようとした瞬間、声をかけられた。アスカには願ってもみないチャンスだったが、多少面食らったのは言うまでもない。
「はい。昨日から……」
 遠慮がちに言うアスカにヒサシは笑顔を向けた。自分は警戒に値しない人間だと言いたげだ。
「よくここには来るんだ。よろしく」
「よろしくお願いします」
 アスカは頭を下げると、その場を後にした。客はヒサシだけではないのだ。ヒサシにばかり、かまけている場合ではない。ただ注意深く、ヒサシのことを遠くから観察した。ヒサシは何度も何度も時計を気にしている。待ち合わせの女がなかなか来ないのだろうか。

 マスターからヒサシが注文したドリンクを受け取ると、アスカはヒサシの元へと向かった。騒がしい店内の中で、ヒサシのいる空間だけ、やけに静かに感じた。この男の持つ不思議な雰囲気に、女はやられてしまうんだろうな、とアスカは思った。
「お待たせ致しました。ジントニックです」
 アスカは時計を気にしているヒサシに言った。ヒサシはアスカがカウンター越しとは言え、目の前に来ていたことに気が付いていなかったようだ。慌てて、顔を上げて、「ありがとう」と微笑んだ。
「あのさ」
 ヒサシはジントニックに一口、口をつけると、アスカの顔をじっと見た。店内が薄暗いからと言って、整った顔の男にじっと見つめられるのは、嫌だった。彼女は自分の造形が美しくないことを知っているからだ。思わず、目を反らしたい衝動に駆られながらもじっと耐えた。これは仕事なのだ。浮気調査の為にこのくらいのことが我慢出来なければ、別れさせ屋の所長なんて務まるわけがない。
「何でしょうか?」
 声をかけてきたきり、黙っているヒサシにアスカは言った。少しでも早く、この緊張する状況から脱したかった。

「少し、話し相手になってもらえないかな」
 ヒサシの突然の申し出にアスカは心底驚いた。仕事中でさっきから忙しく、カウンター内を行ったり来たりしているバーの店員相手に、こんなことをさらっと言ってのけるのだ。どんなシチュエーションでもきっと物怖じしないで、女に声をかけられるのだろう。
「すみません。マスターに聞いてきますね」
 アスカは新人らしく、そうヒサシに答えると、マスターに話し相手になっていても大丈夫かと訊いた。すると、意外にもマスターからはあっさりとOKがもらえて、彼女は拍子抜けしてしまった。
「お待たせしました。大丈夫です」
 アスカはヒサシの元に戻って来るなり言った。
「良かった」
「もしかして、お約束の方が来られないんですか?」
 アスカはさっきから時計を気にしていたヒサシに言った。
「鋭いね。その通りだよ」
「時計を気にされていたから……」
「格好悪いところを見られていたようだね」
「そんなことないですよ。待ち合わせの時間にやってこなければ、誰だって時間が気になるものです」
「フラれちゃったかな……」
 ヒサシはそう言って、酒を煽った。

「仕事が終わってなくて、まだ来られないだけかも」
 アスカの言葉にヒサシは苦笑した。
「だといいんだが……」
「やけにネガティブな答えばかりですね」
「男ってのは、いつも自信がないものさ。特に、気になる女性に対してはね」
「そうかしら? この間のあなたは、そんな風に見えなかったけど」
「よく見てるんだね。探偵みたいだ」
 ヒサシの言葉にアスカは一瞬ドキリとした。
「それは褒め言葉?」
 アスカは微笑みをたたえて、誤魔化す。ヒサシはアスカの動揺には気付いていなようだった。アスカはそっと胸を撫で下ろした。
「君は頭の良い女性だね」
 そう言って、ヒサシはグラスに残っていたジントニックを一気に喉に流し込む。
「そんなことはないですよ。至って、普通です」
「頭が良くない、と言わないところがまたいい。頭が良いと言われて、頭が良くないと答えるのは、嫌味にしか聞こえないからね」
「私は事実しか言わない主義なんです」
 アスカは意味ありげに微笑み、「何を飲まれますか?」とヒサシの空になったグラスに視線を向ける。
「同じものを」
 アスカはヒサシのオーダーをマスターに伝えに行き、しばらくして、ジントニックを持って、ヒサシのところに戻ってきた。

 いけすかないヤツだとばかり思っていた。けれど、悪いヤツ、というわけではないようだ――アスカは2度目の接触でヒサシに対してそう感じていた。
 頭の回転も良ければ、受け答えにも嫌味がない。外見はスマートで、声のトーンもちょうど良い。女が放っておかない理由も自分が接してみて、想像していた以上によくわかった。
「お待たせ致しました」
 アスカはジントニックをヒサシの前に置く。
「一つ気になることがあるんだけど、訊いてもいいかな?」
 ヒサシは遠慮がちに言った。今までの態度とは違って、アスカも一瞬驚いた。
「はい。どうぞ」
「嫌だったら答えなくていいんだけど――」ヒサシはテーブルに視線を落とし、しばし考えた後、「どうして、ここで働くことにしたの?」と言った。
「仕事を探していて……。たまたま、このバーに何度か来たことがあって、いいお店だなって思ってたんです」
「そうか……」
 ヒサシの問いにアスカは一瞬ドキリとした。自分の素性がバレているのかと思ったのだ。自分が別れさせ屋だとバレた時点で、この依頼は失敗ということになる。失敗したというだけならまだ良いが、別れさせ屋に依頼したことがバレて、依頼者とターゲットが離婚なんてことになったら大問題だ。それだけは何としてでも避けなければならない。
 アスカはヒサシの次の言葉を息を飲んで待っていた。

続き>>01-41~01-46.「作戦」 01-47~01-50.「動揺」まとめ読み

【Hayami】「サークル○サークル」55話配信☆


こんにちは☆

Hayamiです。

本日、「サークル○サークル」55話が配信されました。

本格的にダイエットをしようとしているのですが、

ここに来て、いかに楽に痩せるかに頭を使っています。

その前に、努力をしろよって話ですね(笑)

作中のアスカはスレンダータイプ。

絶対に私にはなれない体型なので、とっても憧れます。

ついつい、自分とは違うタイプの人を書きたくなってしまうんですよね。

「ドライフルーツ・シンキング」でもシンゴはアスカを「カッコイイ」と表現していますが、

私がなれないタイプの女性のタイプがまさにこれ。

自分で叶えられないことでも、そういう人を書くことは出来る。

それが作家の良いところだなー、と思います。
さて、番外編「ドライフルーツ・シンキング~マンゴーな過去に~」はもう読んでいただけたでしょうか?

作家のシンゴの視点で語られるアスカとのなれ初めや、

シンゴが考えていることを物書きとして描いている、というお話です。

全10回となっておりますので、ぜひこちらも併せてご覧下さい☆

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次回、56話もよろしくお願い致します☆

小説「サークル○サークル」01-55. 「動揺」

「そんな中学生みたいな発想するかしら?」
「女の半数以上は、そうだと言っても過言ではないと思うけど」
「でも、私はそうじゃないわ」
「アスカはね。君は少し変わってるから」
 シンゴはさらりと言ってのける。内心腹も立ったが、アスカは言い返さなかった。心当たりがありすぎたのだ。自分は人とはどこか違う。それは指摘されなくとも、自分で気が付いていることだった。でなければ、大学卒業と同時に別れさせ屋など開業したりしない。
「男ってのは、浮気する生き物だって言うだろう?」
「そうね。でも、ここに例外がいるわ」
「あぁ、僕はしないね」
 アスカは浮気なんてする度胸がない、という皮肉を込めて言ったつもりだったが、シンゴには伝わっていないようだった。むしろ、良い意味で受け取っている様子さえ窺える。
「なんにでも例外っていうのはあるものさ」
 シンゴは涼しい顔をして、ビールを飲み干した。
「だいたい、男女の友情ってものが成り立つと思うかい?」
 シンゴの話は尚も続く。いつもなら、この辺でもういいと思うところだったが、今日のアスカは違った。アルコールも手伝って、いささか良い気分なのも確かだが、何よりシンゴの話は興味深かった。久しぶりにシンゴが作家である、ということを彼女に思い出させていた。


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