「君は……」
黙々と食べているアスカにシンゴは思い詰めたような声で言った。アスカは咀嚼しながら、目だけで「何?」とシンゴに問いかける。シンゴは一瞬躊躇うようにアスカから視線をそらし、徐に口を開いた。
「君はその誘いを本当に断りたいと思った?」
「えっ?」
シンゴの言葉にアスカは思わず、手に取りかけたほうとうの入ったお椀をテーブルの上に置いた。
「何言ってるの? 当たり前じゃない」
「そうだよね……。ごめん」
シンゴはアスカを見ずに相槌を打つ。アスカは音のない溜め息をついて、ほうとうの入ったお椀に再度手を伸ばした。
アスカがほうとうをすする音だけが部屋に響く。シンゴは何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。自分の言葉が嫉妬から出たものだという自覚があったからだ。けれど、嫉妬だけでそのように思ったわけでは決してなかった。アスカの仕事のことを話す目は――ヒサシのことを話す目は明らかにいつものアスカとは違っていたのだ。口説かれた話をシンゴにするか、しないか迷ったその目は、いけないことをしている子どものようにキラキラとし、まるで恋をしているように、シンゴには映っていた。
「口説かれたの」
「えっ!?」
アスカの言葉にシンゴは目を丸くした。
「口説かれたって、君が?」
「私以外の誰の話をするのよ」
「そりゃそうだけど……。そうか、君が口説かれたのか……」
「何? 私が口説かれることがそんなに不思議?」
少しむっとした様子で言うアスカに、慌ててシンゴはかぶりを振った。
「そんなこと言っていないじゃないか。いや、まさか、君にまで接触を図ろうとするなんて、大した度胸だな、と思って」
「それどういう意味?」
「あっ、えっと、君が思っているような意味じゃなくて、別れさせ屋である君を口説くなんて、度胸があるって意味」
言い繕うのに必死なシンゴは額に汗を滲ませている。「まぁ、いいわ」と言って、アスカはほうとうを啜った。
「それで、君はどうしたの?」
「断ったわよ」
「なんて?」
「お相手の方に申し訳ないですって」
「へぇ……」
「何よ、誘いに乗った方が良かったわけ?」
アスカは言って、シンゴを睨みつける。シンゴは大袈裟に首を左右に振って見せた。
「そんなこと思うわけないじゃないか。ちゃんと断ってくれて、安心したよ」
「でしょうね」
アスカはつっけんどんに言い放つと、今度ははらこめしに手を伸ばした。
アスカが深夜に家に着くと、シンゴは珍しく起きていた。
「おかえり」
笑顔で出迎える夫にアスカは「ただいま」と応える。昨夜、会話があった所為か、以前ほどシンゴに対して、嫌な感情はなかった。アスカは脱いだコートをハンガーにかけると食卓に着き、シンゴはタイミング良く、温かい食事をアスカの前に並べた。
「夜も遅いから、あまり重くないものにしたよ」
シンゴに言われて、アスカは目の前の食事に視線を落とした。はらこめしとほうとうが湯気を立てている。小鉢には小松菜が入っていた。
「健康的ね」
アスカの言葉にシンゴは満足そうに頷いた。
「君のことだから、カロリーも気にするだろうと思って、和食にしたんだよ」
シンゴの言葉にアスカは素直に「ありがとう」と言った。「いただきます」と言って、彼女は食事を始める。シンゴもそれに付き合う形で向かいの席に座った。
「夜遅くまで大変だね」
「えぇ、そうね。でも、大分慣れたわ」
「今日もターゲットは他の女を連れて来た?」
「えぇ。毎回、違う女なのには本当に呆れるわ。そう言えば……」
アスカはほうとうを持ち上げて、手を止めた。
「そう言えば?」
鸚鵡返しに問うシンゴにアスカは黙ったまま、視線を彷徨わせた。言うか言わないか、一瞬心に躊躇いが生じたのだ。しばらくして、アスカは口を開いた。
みなさん、こんにちは。
森野はにぃです。
本日、「ワンダー」68話が配信されました。
3月なのにまだ寒いですね……。
早く春服だけでお出かけしたいのに、なかなかコートが手放せません。
北九州と山口は春一番が吹いたそうですが、
関東はいつになるんでしょう……。
早く暖かくなればいいなー、と思いつつ、
最近仕事が忙しくて、思うように遊びに行けてません(笑)
なので、ちょうど春っぽくなった頃にふらりと出掛けられたらいいなーと思います。
「ワンダー」もとうとうもうすぐ70話です。
登場人物が多い関係でゆったりとした進み具合に見えてるかもしれませんが、
着実に前進しておりますので、末永くよろしくお願い致します。
漸く、話の展開と言いますか、着地点を見つけられて、ほっとしている感じです。
ただの着地点に上手く持っていけるのか……。
ちょっぴり不安でもあります(笑)
兎にも角にも、「ワンダー」の続きを楽しみにしていただけますと幸いです。
「伝票でございます」
アスカは伝票をヒサシに手渡す。ヒサシが受け取る瞬間、ちらりと隣の女を見遣った。栗色の巻き髪がいかにもといった今風の若い女だ。その女のネイルには、凝ったデザインのアートが施され、手にはしっかりとブランドもののバッグがあった。女はカウンターの上にある空になったグラスをぼんやりと眺め、財布を取り出す気配すらない。アスカにはそんな女の態度が理解出来なかったし、気に入らなくもあった。一瞬過ぎった「私の方がいい女なのに」という気持ちは単なる僻みでしかない。第一、成熟しかけている大人という意味では、アスカの方がいくらか年が上なのだから当たり前であったし、何よりこの女はアスカより幾分もキレイだった。アスカにはない美貌を持ち合わせているという点では、明らかに女の方が優れている。
ヒサシは数枚の一万円札を伝票に挟むとアスカに渡した。アスカはそれを丁寧なしぐさで受け取ると、「かしこまりました」と言ってレジへと向かう。釣り金とレシートをカルトンの上に乗せ、ヒサシのところへ再度持って行った。
「お待たせ致しました。お返しでございます」
アスカは小銭の乗ったカルトンをヒサシの前に置いた。「ありがとう」とヒサシは言い、振り向くことなく、店を後にした。
ヒサシと女の後ろ姿を見送りながら、アスカはもやもやとした気持ちだけが心の中で渦巻くのを感じていた。