アスカは一歩店内に足を踏み入れる。
店内は相変わらず薄暗く、微かにBGMがかかっていた。アスカはカウンター席に視線を走らせる。
ドアベルの音に反応してか、振り向いた男が一人――ヒサシだった。
アスカは何も言わず、空いているヒサシの右隣に座った。
マスターが一瞬驚いたような顔をしたけれど、マスターのいる位置とは席が離れていたので、特に言葉を交わすこともなかった。
新しく入ったであろうアルバイトの女の子がアスカの前におしぼりを持ってくる。注文を聞かれたので、アスカは「モヒートを」と答えた。
しばらくすると、お通しのワカメスープが運ばれてくる。それから、モヒートが間を開けずに運ばれて来た。
「来ないかと思ったよ」
ヒサシはアスカの方を見ずに言った。
「先約があったのよ」
「レナと会ってた、とか」
「もう全部わかっているみたいね」
「まぁ、夜は長い。取り敢えず、乾杯」
そう言って、ヒサシはアスカの持つモヒートのグラスに自分のグラスを軽くあてた。
「いろんな経験の上に思考は成り立つから、かな」
アスカは言いながら、回りくどい言い方をしてしまったな、と思っていた。けれど、レナはアスカの言葉に深く頷いている。
「私はまだ経験が足りないのかな……」
「そうね。今回のことも良い経験になったんじゃない?」
「はい……。でも、彼に納得してもらわないと別れられないから……」
「時間はかかるかもしれないけど、きっと大丈夫よ。それより、さっきの幼馴染の彼には別れること言ったの?」
「いえ……。関係ないことですから」
レナはアスカにきっぱりと言い放った。なんだか幼馴染の青年が可哀想になる。
「そろそろ、行きましょうか」
アスカは立ち上がる前にバッグに手を伸ばした。
「あの支払は……」
「もう済ませてあるわ」
アスカはそう言って、レナに微笑んだ。
アスカはレナと別れると急いで、ヒサシの待つバーへと向かった。
見慣れたバーのドアも今となっては懐かしい。
アスカはドアの前で大きく深呼吸をすると、ドアノブに手を伸ばした。
ドアを引き開けると、カランカランとドアベルが鳴った。
「あなたは気が付いてないのね」
「えっ……」
アスカの言葉にレナは一瞬眉間に皺を寄せた。
「彼はあなたのことが好きなのよ。だから、あなたに不倫をやめてもらいたい。ただそれだけだと思うわ」
「そんなことないですよ!」
レナはアスカの言葉を即座に否定した。
「どうして、そんなことが言い切れるの?」
「だって、私とユウキは幼馴染で……」
「それはあなたの主観でしょう? 彼は幼馴染であり、好きな人として、あなたを見てるんじゃない?」
「……」
心当たりがあるのか、レナは黙った。黙って、そのまま、ふと足を止めた。
「どうして、アスカさんはいろんなことを上手に考えられるんですか……?」
“上手に考えられる”という言い方にアスカは違和感を覚えたけれど、レナの言いたいことはなんとなくわかった。
今、彼女の頭の中は混乱しているのだ。
必死で整理しようとしているのに、上手くいかない。そんな彼女の心情が表されている言葉のような気がしていた。
アスカとレナは中華レストランを出ると、しばらく無言で歩いた。
レナはきっとあの状況を説明する言葉を探しているのだろう。
アスカはそれをわかっていたので、何も言わなかった。レナが話したいタイミングで話し出せばいいと思っていたのだ。
駅まであと数メートルというところまで来て、レナが口を開いた。
「すみません……。みっともないところを見せてしまって……」
「別にいいのよ。みっともないなんて思ってないわ」
アスカの言葉に安心したのか、レナはぽつりぽつりと話し始める。
「彼は――ユウキは私の幼馴染なんです。ユウキは私が不倫していることを知ってて、ずっとやめるように言ってきてて……」
「そうだったんだ」
「はい……。何度放っておいてと言っても、顔を合わせる度に別れろって言われて、その度にケンカして……。さっきもお手洗いから帰ってくる時にまたその話をされて、口論になって……」
「そうだったの……。きっとレナちゃんのことが心配なのね」
「違います! ただのお節介なんです。ユウキは昔からああだから……」
窘めるように言うアスカにレナはむきになって答えた。
五分経っても、十分経っても、レナは席に戻ってこない。アスカは次第に心配になってきた。もう一度、席を立ち、レナがいた場所へと視線を向けた。すると、幼馴染の男がレナと真剣な顔をして話しているのが見えた。レナの表情はアスカの位置からは見えない。
アスカは痺れを切らして、レナとその幼馴染の男のところへと行った。
「どうかしたの?」
アスカはレナの背後から声かける。
「アスカさん……」
レナは振り返ると、困り顔でアスカを見た。
「彼女と今一緒に食事をしているんだけれど、何かご用かしら」
アスカは落ち着いた口調で言う。幼馴染の男は罰が悪そうに俯いた。
「もういい? 私、あなたと話すことは何もないの」
レナはそう言うと、男の前から立ち去ろうとする。けれど、男はそれを許さなかった。男はレナの腕を離さなかったのだ。そして、そのまま立ち上がる。
「行かせない」
「離してよ! 私はアスカさんと食事してるだけなの。だいたい、ユウキには私が誰と付き合おうと関係ないでしょ!?」
レナの言葉にユウキはレナの腕を掴む力を緩めた。その隙にレナはユウキの手をふりほどき、アスカに駆け寄る。
「アスカさん、行きましょう!」
レナの強い口調に圧倒されながら、アスカはレナとともに元いた席に戻った。