「依頼者がケータイを見て、ターゲットの浮気と浮気相手もわかってたわけでしょう? なのに、どうして私のところに依頼に来たのかしら……?」
アスカはシンゴから視線を外し、テーブルに並べられた食べかけの食事に視線を落とした。
「それは家庭に波風を立てずに別れさせてほしいからだろう? 依頼者がターゲットを問い詰めたりしたら、浮気をやめたとしてもわだかまりは残るからね。それに自分で問い詰めて、ターゲットが浮気相手を選ぶのが怖いからじゃないの?」
「それはそうかもしれないけど……。なんか腑に落ちないっていうか……」
アスカは自分の仕事の甘さに憤りを感じつつ、言いようのない違和感を覚えていた。何かが引っかかる。けれど、何が引っかかっているのかアスカ自身にもよくわからなかった。その引っかかりの一つであろうことをアスカは躊躇いながらも口にした。
「あのね、依頼者は妊娠してるのよ。妊娠がわかったら、急に夫が優しくなるとかってよく聞く話じゃない? 妊娠してるなら、妊娠を伝えて、浮気をやめてもらうことって、有効な方法な気がするんだけど……」
「でも、浮気が一番多い時期っていうのは、奥さんの妊娠してる時だとも言うよね」
「確かに……」
アスカは腕を組み再び唸り出した。パエリアもスープもすでに冷め切ってしまっていた。
「視野が狭くなる、自分の世界が家庭だけになる。これって、実はとても怖いことだと思わない? 世界は限りなく広いんだ。けれど、依頼者にとってはそうではなかった。狭い世界だから、なんにでもすぐ手が届く。手が届くなら、敢えて触れないという選択をしない限り、簡単に触れることが出来てしまう。本当は触れない方がいいものにも触れてしまうんだ。けれど、触れれば真実を知ることが出来る。もやもやするくらいなら、一層のこと、傷付いても真実を知りたいと思うのが多分人間ってものだと思う。間違いなく、僕だったら、触れてしまうだろうね」
小説の文章のような言い回しに聞き入りながらも、最後の一文にアスカは度胆を抜かれた。そして、すぐに言葉が口をついて出た。
「私のケータイ見てるの?」
驚いた様子で言うアスカに「まさか」と言って、シンゴは笑う。そして、「たとえ話だよ」と続けた。
「だから、たとえどんなタイプの女性だったとしても、ケータイを見るのは別に有り得ない話ではないと思うよ」
シンゴの言葉を受けて、アスカは唸っている。しばらく唸っても答えは出そうにないと彼女は判断し、シンゴの目をしっかりと見据えると、再び口を開いた。
みなさん、こんにちは。
森野はにぃです。
本日、「ワンダー」61話が配信されました。
3月もすてに5日目に突入です。
この間、3月になりましたね!って言ってたはずなのに(笑)
ホントに1日1日、過ぎていくのが早いですね。
やらなきゃいけいなことも、やりたいことも山積みなのですが、
なかなか終わってません。
ちゃんとやってるのって、仕事くらいです(笑)
プライベートがごっちゃごちゃ!
特に部屋がごっちゃごっちゃなので、
せっせっとお片付けに励みたいと思います。
皆さんも楽しい春を満喫して下さいね!
私は花粉と戦うことになると思います(笑)
アスカが風呂からあがってくると、すでに夕飯の準備は万全だった。テーブルには所狭しと料理が並べられ、冷えたグラスも用意されている。
「今日は飲むでしょ?」
シンゴはテーブルの真ん中にパエリアを置きながら、アスカをちらりと見て言った。
「そうね……。たまには」
アスカは答えると、濡れた髪を拭きながら、席へと着く。そのまま、プラスチック製のヘアアクセサリーで髪をアップにすると、バスタオルを隣の椅子にかけた。アスカの前でシンゴは忙しなく、キッチンとテーブルを行ったり来たりしている。
「今日はパエリアに初挑戦したんだよ」
シンゴは缶ビールを2本持ってくると、嬉しそうにパエリアを指差した。
「おいしそうね」
「うん! 自信作だよ」
シンゴが缶ビールのプルトップを引き上げると、小気味良い音を立てて、缶ビールが開いた。アスカの持つ冷えたグラスにシンゴは要領良くビールを注ぐ。シンゴはアスカのグラスに注ぎ終わると、自分のグラスを反対側の手に持ち、ビールを注いだ。昔なら、アスカはシンゴの分を注いでくれた。けれど、今はそれすらもしてくれない。愛情が冷めきっている証拠だとシンゴは悲しくなった。けれど、ここで不満そうな顔をすれば、それだけでケンカの原因になることもわかっている。擦れ違いが重なり、関係が冷え始めた夫婦は常に一触即発の危険に晒されている。シンゴは楽しい夕飯の時間を死守する為に、平常心と作り笑顔に努めた。
「乾杯!」
シンゴが言うと、アスカは静かにシンゴのグラスに自分のグラスを当てた。グラスのぶつかり合う高い音が静かなリビングに反響する。
「ねぇ、最近、仕事はどう? 順調に進んでる?」
ビールをおいしそうに飲んだ後、シンゴはアスカに訊いた。アスカはビールを飲むのを止めて、首を傾げた。
「まあまあね」
「今、どんな仕事してるの?」
「女性からの依頼で、旦那と不倫相手を別れさせるっていう内容の仕事。いつもと変わらないよ。ただ……」
「ただ……?」
鸚鵡返しに問うシンゴにアスカは口籠る。何か言いづらいことがあるのかとシンゴは急に不安になった。基本的に守秘義務厳守の別れさせ屋という仕事柄、アスカは仕事内容を他言することはない。けれど、シンゴにだけは別だった。彼は誰かに知った情報を漏らすわけでもなかったし、時折、アスカが思いもつかなかった方法を提案してくることもある。そういったメリットがあったので、アスカはシンゴと付き合うようになってから、シンゴにだけ話すのが習慣になっていた。最近はめっきり2人の会話も減ってしまい、仕事の話をすることもなかったけれど、アルコールが入ってる所為か、はたまた習慣のなせるわざか、アスカは今までと同じようにシンゴに今回の依頼内容について説明を始めた。
今日のアスカはいつもより、やけに饒舌だった。
アスカは依頼のあった日から今日の出来事まで、丁寧にシンゴに説明する。そうして、ふとこうしてシンゴと随分長い間、会話をしていなかったことに気が付いた。
仕事が忙しいから、というのはもっともな理由だろう。けれど、昔の自分ならどんなに忙しくても、シンゴと話す時間を作っていたはずだ。シンゴとすれ違っていくのは、自分の怠惰さにも原因があるような気がした。しかし、それでもやはり、シンゴのうだつのあがらなさが何よりの原因だと次の瞬間には思い直していた。
「それじゃあ、調査は完全に打ち切ってしまうの?」
マキコが依頼を断りに来たところまで話し終わると、シンゴが複雑な表情を浮かべて問うた。
「いいえ。依頼者の一時的な気の迷いである可能性も大いにありうるわ。また、調査を再開してほしいと言われた時に、あのバーを辞めていると、何かと不便だもの。取り敢えず、まだバーは辞めないし、ターゲットとの接触もやめないわ」
「それも大変だね……」
「確かに調査の再依頼がなければ困りものだけど、再依頼さえくれば、継続していた費用は請求するし、問題ないもの。まぁ、賭けではあるけどね」
アスカは言いながら、パエリアに入っていたエビにかぶりついた。味がしっかりとついていて、おいしいと思ったが、眉間に皺を寄せて考え込んでいるシンゴを見て、感想を言うのをやめた。
「ねぇ、どうして、依頼者が依頼を断って来たかわかってる?」
シンゴは眉間に皺を寄せたそのままで言った。シンゴの言葉にアスカは「わからないけど」とあっさりと答えたが、はっとして続けた。「もしかして、あなた、わかっているの?」その言葉を待ってましたとばかりに、シンゴは不敵な笑みを浮かべた。アスカは一瞬背筋がぞっとする。二の腕をこすりながら、アスカはシンゴのその不敵な笑みから目を離せずにいた。
「依頼者が依頼を断ってきた理由を本人は色々と繕うだろうけど、本当の理由はたった一つだけだと思うよ」
そこでシンゴは言葉を区切る。
「もったいぶらずに教えてよ」
仕方ないな、と言いたげにシンゴは口を開いた。
「君とターゲットが恋に落ちたらどうしよう、という不安からだよ」
「まさか」
アスカはシンゴの言葉を鼻で笑った。
「君は何もわかってない」
シンゴは鼻で笑ったアスカの目を見つめて言う。その目は真剣そのものだ。
「どういう意味よ」
「そのままの意味さ。女は全て浮気相手になりうる、というのが彼女の本心だと思うよ」
シンゴは事もなげに言った。
「そんな中学生みたいな発想するかしら?」
「女の半数以上は、そうだと言っても過言ではないと思うけど」
「でも、私はそうじゃないわ」
「アスカはね。君は少し変わってるから」
シンゴはさらりと言ってのける。内心腹も立ったが、アスカは言い返さなかった。心当たりがありすぎたのだ。自分は人とはどこか違う。それは指摘されなくとも、自分で気が付いていることだった。でなければ、大学卒業と同時に別れさせ屋など開業したりしない。
「男ってのは、浮気する生き物だって言うだろう?」
「そうね。でも、ここに例外がいるわ」
「あぁ、僕はしないね」
アスカは浮気なんてする度胸がない、という皮肉を込めて言ったつもりだったが、シンゴには伝わっていないようだった。むしろ、良い意味で受け取っている様子さえ窺える。
「なんにでも例外っていうのはあるものさ」
シンゴは涼しい顔をして、ビールを飲み干した。
「だいたい、男女の友情ってものが成り立つと思うかい?」
シンゴの話は尚も続く。いつもなら、この辺でもういいと思うところだったが、今日のアスカは違った。アルコールも手伝って、いささか良い気分なのも確かだが、何よりシンゴの話は興味深かった。久しぶりにシンゴが作家である、ということを彼女に思い出させていた。
「成り立つんじゃない?」
アスカはムール貝を口に運びながら言った。いつも思うことだが、やはりこの味を好きになれない。それでも、なぜか毎回チャレンジしてしまう自分に半ば呆れていた。
「じゃあ、君は友情関係の成立した男友達を持っているんだね?」
言われて、アスカはしばし考え込む。何人か男友達の顔が浮かんだが、果たして、本当にそこには友情しかなく、恋愛感情は皆無だと言い切れるのだろうか。強く迫られたら、恋に落ちてしまいそうな友達が二人いることに気が付いた。けれど、それ以外は全員恋愛対象外だ。しかし、相手の男友達に自分に対する恋愛感情が皆無だと言い切れるだろうか。心の中のことは、本人にしかわからない。
「そうね。だいたいは、成り立つんじゃないかしら」
「ということは、成り立たない関係性でありながら、友達関係を続けている、ということだね」
「そういうことになるわね。そういうシンゴはどうなのよ」
「僕? 僕は成り立たないと思っているよ。だから、女性と二人きりで食事を行くなんて、浅はかな真似はしない。編集担当者は別だけどね」
シンゴの言葉にアスカは黙るしかなかった。
「ターゲットはきっと君の話を家に帰ってから、依頼者にしてると思うよ」
「えっ」
「だって、それが自然だと思わない? ターゲットは毎晩飲んで帰ってくるわけだろう? そうなれば、どこで誰と飲んでいたの、という話になる。そうした時、バーなら一人で飲んでいたって、おかしくなんてないし、いちいち会社の同僚や上司と飲んでいた、なんて嘘はつかなくていいからね。その証拠にバーで話した君の話をする。そして、依頼者は別れさせ屋である君と話しているんだということに気が付く。だけど、別れさせ屋だと言っても、相手は女性だ。そこに嫉妬心が芽生えないと言い切れる?」
「それは……」
「ターゲットは頭の良い人だと思うよ。浮気現場にバーを選ぶなんて。一緒に連れてきた女性の話は依頼者にはせずに、バーで話した君の話だけをする。この時点でターゲットは何一つ嘘をついていないんだからね」
シンゴはスープを口に運んだ。少し生ぬるくなっていたが、かぼちゃの味が口の中いっぱいに広がることに幸せを感じた。もう一口飲もうとして、アスカを見る。アスカは難しい顔をして、パエリアを見つめていた。
「食事が冷めちゃうよ」
「そうね……」
アスカはどこか上の空で返事をする。彼女はありったけの想像力と論理力で思考を巡らせたが、シンゴのスピードには敵わなかった。こういう時、悔しいけれど、本当にシンゴのことをすごいと思う。この人の妻で良かったと思う唯一の瞬間だと言っても、過言ではなかった。
「一人で毎晩飲みに行くのって、おかしいと思われないかしら?」
「それが習慣だと言えばいい。それにそう言われたって、一人で行っていた、と言えば、それまでだよ。人は嘘をつく時、全てを嘘で固めるとついついボロが出てしまう。だけど、ピンポイントで嘘をつけば、その嘘はバレにくくなる。だから、一人で行っていた、という嘘をつくくらいなんてことないと僕は思うけど」
「なるほどね……」
アスカは頷いたものの、はっとした。だとしたら、どうして、マキコはヒサシの浮気に気が付いたというのだろう。
「でも、そんなに周到に嘘がつける賢さがあるのに、どうして、依頼者に浮気がバレたのかしら?」
「そういうタイプはホテルの領収書を持って帰るなんてヘマはしないだろうし、バレるとすればその周到さえ故だろうね」
シンゴは微笑む。その微笑みにアスカは一瞬ぞくりとした。
「周到さ故ってどういうことよ?」
アスカはいつもと違って、若干だが輝いて見える夫に向かって言った。
「浮気がバレないように完璧に振る舞うだろう? けれど、その完璧さはある種の不自然な空気を生んでしまう。そして、その空気を女性は見事に見破るんだ」
「よく言う女の勘ってやつ?」
「そうだよ。嘘には必ずどこかに綻びがある。その綻びはとても小さくて、普通じゃ気付けない。特にこれが男女逆転の場合は尚更。男性にはちょっとした空気の違いを見破るような鋭さは備わっていないからね。けれど、女性にはその鋭さが生まれつき備わっている。だから、女性は男性の浮気にすぐ気が付けるんじゃないかな」
今までの明確な推理とは打って変わって、憶測の域を出ないシンゴの発言に、アスカはいささか訝しげな表情を浮かべたが、敢えて口にはしなかった。シンゴの言わんとしていることは、女のアスカにはいくつも心当たりがあったからだ。その代わり、別の疑問を口にする。
「でも、どうして、浮気相手まで誰なのかがわかるのよ」
「それは簡単さ」
シンゴは得意げな顔をする。アスカは一瞬イラっとしたが、表に出さずにシンゴの話の続きを待った。
「依頼者がターゲットのケータイを見たか、ターゲットの仕事先を覗きに行ったかのどちらかだろうね」
「そんな、まさか」
アスカはマキコとの会話を思い出す。依頼された時にそんな話は聞かなかったし、何よりマキコが夫のケータイを見るような浅はかな女には見えなかった。けれど、もし夫に浮気の疑いがあったとしたら、どんな利口な女でもケータイを盗み見るようなまねをするのだろうか。
「嫉妬に狂えば、まさか、と思うようなことを人間は簡単にしてしまうと思うけど」
「嫉妬に狂うなんてこと、あるかしら?」
「その人、仕事は?」
「パートをしてるって言ってたわ。パートで依頼料を貯めたみたい」
「パートをした理由が依頼料の為だったとして、それまでは専業主婦だったとしたら?」
「何が言いたいのよ」
アスカはシンゴの言っている意味がわからず、もどかしさからついむっとして強い口調になる。
「専業主婦だとしたら、家事をして、ターゲットの帰りを待つ毎日の繰り返しだろう? だけど、ターゲットは浮気をして、帰りが遅い。そうなれば、寂しさは募るばかりだと思わないかい?」
「そりゃあ、そうかもしれないけど……」
アスカは思考を巡らせたが、シンゴの言葉に反論する良い理由を見つけることが出来なかった。
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「女の勘で浮気に気が付き、ケータイを見て確信に変わる。浮気発覚で一番よくあるパターンだってことは、アスカが一番よく知っているだろう?」
「そうだけど……」
しかし、アスカはどこか腑に落ちなかった。マキコがそんなことをするような女に見えなかったからだ。今になって思うと、依頼された時にどうして浮気に気が付いたのか、ということを訊かなかったことを後悔していた。いつもなら、間違いなく訊いていたはずだ。けれど、あの時、なぜかそんなことを訊く気にはならなかった。それはマキコの持つ雰囲気やしぐさが理由だったのだろうが、後悔だけがアスカの気持ちに残る。
「そうやって、依頼者はターゲットの浮気を知り、浮気相手までをも知ってしまった。そして、君のところにやって来た。外で仕事をしていれば、気が紛れるかもしれないけれど、ずっと家にいる専業主婦にとっては、家庭が全てになってしまいがちだからね。自然と視野が狭くなってしまうこともあると思うよ。依頼者が多趣味で習い事をいっぱいしていたとかっていうんなら、また違ってくるとは思うけど」
そこまで言って、シンゴは「まぁ、僕も常に家にいる身だからね、依頼者の気持ちがわからなくはないんだ」と付け加えた。