「どうぞ、こちらに」
アスカは気まずそうに俯いているマキコに言った。
マキコは言われるがまま、ソファへと腰をかける。アスカは紅茶を淹れる準備を始めていた。お湯を茶葉の入ったポットに注ぎ、アスカはきっかり三分待つと、ティーカップへと注ぐ。もらい物のクッキーを添えて、コーヒーテーブルの上に静かに置いた。
「どうぞ、召し上がって」
アスカはマキコに勧めながら、自分も紅茶に口をつける。マキコはカップの中が赤い色をしていることに少し驚いたような顔をする。それを見たアスカがすかさず、「ルイボスティーよ」と言った。マキコはアスカを上目遣いで見上げ、小さく頷くと、再びカップの中身へと視線を落とした。
「大丈夫よ、ノンカフェインだから。身体にも優しいわ」
アスカの言葉にマキコはほっとした表情を浮かべる。お腹の子どものことが気になっていたのだろう。マキコは紅茶を口にした。
アスカはそんなマキコを見て、ふいにヒサシとのキスが脳裏を過ぎった。アスカは平静を装う為に、もう一度紅茶に口をつけた。
加速していく思いはいつだって、自分ではどうすることも出来ない。それをアスカは今までのいくつもの経験から知っていた。恋はいつだって、恋する自分を振り回す。それに抗える程、アスカはまだ年老いてはいなかった。
会えない時間もついヒサシのことを考えてしまう。まだヒサシの唇の感触を覚えている。自分にはシンゴがいるけれど、シンゴとはもう随分と恋人のような関係ではなくなっていた。だから、余計にヒサシとのことが頭から離れないのかもしれない。得も言われぬ背徳感にただただアスカは、翻弄されているだけだった。
事務所の窓からは暖かな陽射しが差し込み、アスカは一瞬目を細める。机の上にいつものように足をあげ、煙草の煙をくゆらすと、天井を見上げた。しばらく経って、アスカは肺いっぱいに煙草の煙を吸い込んで、一息に吐き出した。自分のしている行動の意味の無さに沸々と可笑しさが込み上げてくる。
アスカが吹き出しそうになった瞬間、ドアが開いた。
慌てて、アスカは机から足を下ろし、煙草を灰皿に押しつけると、姿勢を正して椅子ごとドアの方を向いた。
「ご無沙汰しております」
そこに立っていたのは少し膨らんだお腹が印象的なマキコだった。
一体、どうやって、アスカの気持ちを取り戻そうか。シンゴはいつになく頭を使っていた。こんなに頭を使うのは、久々だと思った。それは普段小説を書くことにそこまで力を注いでいないということを意味していた。そんな自分の怠惰さに呆れながらも、シンゴは久々に懸命に思考を巡らせた。自分の妻を取られるわけにはいかない。
アスカは明らかにターゲットに恋焦がれている。では、どうすれば、その恋は終わるのだろうか。それは簡単なことだ。ターゲットが元の鞘に収まればいいのだ。ふらふらとしている男が自分の戻るべき場所に戻れば、アスカを振り向くことはない。自分を振り向かない男に大抵の女は愛想を尽かすはずだ。
実際、アスカは本当にターゲットを愛しているのだろうか。その点にも疑問が残る。普段は感じることの出来ないトキメキをターゲットがほんの少しアスカに与えただけなのではないだろうか。そう、錯覚だ。きっとアスカはほんの少しのトキメキを恋だと錯覚しているに違いない。
不倫をするような男だ。アスカにだって、言葉巧みに近寄って来たのだろう。アスカはああ見えて、意外に純粋で恋愛経験が少ない。シンゴもそんなに多い方ではなかったが、アスカより恋愛経験がある自信はあった。
ここはやっぱり――そこまで考えて、シンゴは一つ大きく頷いた。
彼にはこの勝負に勝つ為の作戦があった。