アスカはドキドキしながら、レナを待っていた。こんな嫌な緊張をするのは久々だった。この仕事も長くなり、どこかあぐらをかいてしまっていたのかもしれない。
アスカは帰宅する人たちでごった返す駅の改札前で腕時計に視線を落とした。レナとの待ち合わせまで、あと十分もある。あと十分間もこの緊張感を持ったまま、ここに立ち続けているのかと思うと溜め息が出た。
駅のホームに向かう為、改札を通って行く人たちを見ながら、なんだか羨ましかった。これから二つも仕事をこなさなければならないのだ。アスカはもう一度溜め息をつく。嫌なことから逃げたいという気持ちの溜め息というよりは、自分の気持ちを落ち着かせる為の溜め息のようにも感じられた。
「すみません。お待たせしてしまって」
前から小走りで近づいて来たレナは、アスカの前に着くなり、申し訳なさそうに言った。
「さっき来たばかりだから、大丈夫よ」
実際、本来の待ち合わせ時間にはまだなっていなかった。
「行きましょうか」
アスカはレナに言うと、歩き出した。
アスカはケータイを握りしめたまま、溜め息をついた。
やっかいなことになった。
ヒサシが別れさせ屋の自分に気が付いた、ということは、マキコには失敗したことが筒抜けになっているかもしれないし、レナは自分の正体を知ってしまっているかもしれない。
レナからの電話があった直後、ヒサシから電話があるなんて、あまりにもタイムリー過ぎる。もしくは、何か交換条件をつきつけてくるか――。
アスカはレナとの待ち合わせに行きたくない、と思ったが、そうも言っていられない。待ち合わせの時間は迫っていた。もう一度、深い溜め息をつくと、アスカはレナとの待ち合わせ場所に向かった。
アスカが慌ただしく出ていってから、シンゴは再び書斎に戻った。今の自分がしなければならないことは、小説を書くことだ。
この小説をきちんと出版して、再び、作家としての自分を取り戻す必要があった。世間は自分が消えたと思っているかもしれない。けれど、もう一度本を出せば、消えたわけではない、ということを明示することが出来るだろう。
シンゴはひたすらパソコンに向かった。
アスカが浮気をしていない、とわかったことで、心のもやが晴れたのだろうか。今まで以上に原稿は進んだ。
「ごめん。もう行くね」
アスカはケータイのディスプレイに視線を落とすと、そう言って、急いで出て行ってしまった。
一体、アスカの行きたい場所とはどこなんだろう? とシンゴは思いながら、ゆっくりと閉まっていく玄関のドアを見つめていた。
アスカは電話にかかってきた声を聞いて、驚いた。
「誰だかわかる?」
その声にアスカは聞き覚えがあった。
――ヒサシだ。
アスカはそう思うと、息が止まりそうだった。
「どうして、この番号を?」
アスカは声をひそめて話した。マンションの廊下は意外に声が響くからだ。
「名刺」声は淡々と言った。
「名刺……?」
鸚鵡返しに問うて、それがどういう意味なのかに気が付いた。
レナだ。レナの持っているアスカの名刺をヒサシは見たのだ。
しかし、それが事実だったとしても、アスカはヒサシが名刺を見た理由を敢えて自分では口にしなかった。場合によっては、カマカケの可能性もあるからだ。
「わからない? いや、君のことだ。ホントのことがわかっていて、黙っているね」
ヒサシは自分より上手かもしれない、とアスカは思った。
「なんのことだか、さっぱり」
「白を切るつもりなのか……。まぁ、いい。取り敢えず、いつものバーで待ってる」
そう言って、電話は切れた。