手当を終えると、アスカはぼんやりとシンゴのことを目で追っていた。
「どうしたの?」
シンゴは救急箱を片付けて戻って来るなり問う。
「シンゴ、ごめん」
アスカの顔が苦痛に歪む。
シンゴはとうとう来たか、と思った。きっとアスカは浮気を告白し、別れを告げて来るに違いない。一瞬のうちにシンゴは覚悟する。黙ったまま、アスカ次の言葉を待った。
「シンゴ、私……」
アスカは涙目でシンゴを見上げる。シンゴは座るタイミングを失い、立ったまま、アスカを見下ろした。
「……」
本当は「言わなくていい」とアスカに言いたいと思ったが、ここでそんなことを言ってしまったら、アスカが別れを告げるタイミングを先延ばしにするだけだ。シンゴは開きそうになった口をつぐんだ。
「……なに?」
シンゴは代わりに優しく訊いた。
「……私、奥さんとして失格だよね」
「……」
アスカの言葉にシンゴは何も言えなかった。ここで肯定することも否定することも早すぎると感じたのだ。
「全然大丈夫じゃないじゃないか」
「ごめん……」
「救急箱持ってくるから、止血して、そこ座ってて」
シンゴはダイニングテーブルの椅子を指差すと、寝室へと消えた。
アスカは溜め息をついて、血の流れる人差し指を抑えて、椅子に座った。シンゴが寝室に行く寸前、椅子を引いてくれていたおかげで、簡単に椅子に座ることが出来た。
近くにあったティッシュで指を覆い、シンゴが戻ってくるのを待つ。
随分とケガなんてしていなかったし、消毒液があったかな、とアスカは思いながら、ぼんやりとテレビの方を見た。
テレビ画面の映像はアスカの位置から見えなかったけれど、画面から放たれる光がちらちらとローテーブルに反射しているのが見えた。
しばらくすると、シンゴが救急箱を持って、戻って来た。
「ごめん」
アスカは救急箱をダイニングテーブルに置くシンゴに申し訳なさそうに言う。
「気にしなくていいよ。それより、まだ血、止まりそうにないね」
「結構、深いのかな……」
「いや、指はよく血が出るから。取り敢えず、消毒しよう」
そう言って、シンゴは救急箱から消毒液を取り出した。
アスカは食器を洗いながら、テレビを観ているシンゴをキッチンからちらりと見る。
シンゴは難しい顔をして、テレビの画面を凝視していた。
そんなに嫌なニュースでも流れているんだろうか、と思ったが、ふとアスカはシンゴが仕事で悩んでいるのかもしれない、と思った。
シンゴは今までろくに小説を書いていなかった。アスカの前では?にも出さないが、ブランクがある分、本当は書くのが辛いのかもしれない。
アスカは放っておくのがいいのか、それとも、そのことについて声をかけた方がいいのかを悩む。
どうしよう……と思っていた矢先、手から皿が滑り落ちた。
アスカが「あ、」と思った時には甲高い音がして、皿が割れた。
慌てて水を止めて、皿の破片を拾い集めようとする。
「大丈夫?」
声がして振り向くと、アスカの背後にはいつの間にかシンゴがやって来ていた。
「大丈夫。ちょっと手が滑って、お皿が割れちゃっただけだから」
アスカはそう言って、破片に手を伸ばした。
「っ……」
急いでいた所為で、アスカは指を切る。あっという間に赤い血が滴った。
「ごちそうさま」
シンゴはアスカが食べ終わったのを見計らい、食器を持って席を立とうとする。
「いいよ、置いておいて。私が片付けるから」
「でも……」
「言ったでしょう? 今日は家事をバッチリするって」
アスカはシンゴの手から皿を取ると、シンクへと持って行く。
「……」
シンゴは黙ったまま、アスカの後ろ姿を見据えた。
全てのことが別れの兆候にしか思えず、嫌な考えしか浮かばない。
シンゴはアスカに気付かれないように溜め息をつくと、ソファに腰をかけた。
すぐに書斎に行くのは気が引けたし、かと言って、ダイニングテーブルにいるのも違和感がある。
テレビの電源ボタンを押すと、見慣れた朝の情報番組がついた。テレビには馴染みのキャスターが映し出され、昨日起きた事件の新たな情報が次々と流れてくる。シンゴにもそのニュースが聞こえてきてはいたけれど、耳には入ってこなかった。移ろう画面を目が的確に追いかけていくだけだった。
今日の朝からシンゴはずっと上の空だった。