小説「サークル○サークル」01-269. 「加速」

シンゴは「おいしいね」と言いながら、朝食を食べていたけれど、考え事の所為でいまいち味はよくわからなかった。
「こういう時間って大切よね」
「えっ……?」
「二人で一緒に朝食をとる時間。穏やかで、一日の始まりに必要な時間だなって思って」
アスカは微笑む。シンゴも一拍遅れて、微笑んだ。アスカからそんな言葉が発せられるなどと思いもしなかったのだ。
「結婚してから、こういう時間、取って来なかったもんね」
「えぇ……。夫婦らしい夫婦ではなかったわよね……」
アスカはそう言って、少し遠い目をした。
シンゴは嫌な予感がした。
これではまるで別れ話の前振りのようではないか。こうやって、今までの自分たちを振り返り、もっとあの時こうしておけば良かったと口にするのだろう。
シンゴは速くなっていく鼓動から意識を反らせようと、コーヒーを喉に流し込んだ。冷めてしまい、生ぬるくなったコーヒーはシンゴの空しさを増幅させていく。
シンゴの目の前にいるアスカはトーストの最後の一口を今まさに食べようとしていた。

小説「サークル○サークル」01-268. 「加速」

「どうしたの? 難しい顔して。カップの底に何か書いてある?」
アスカは笑いながら、シンゴを見る。
「いや……」
シンゴは気の利いた言葉も思いつけないまま、アスカの言葉に曖昧な相槌を打った。
「シンゴは仕事は順調? 小説はだいぶ書き終わったの?」
「順調だけど、まだ半分くらいかな。あと二週間くらいで書き終わると思うけど」
「随分、早いのね」
「書き出しさえ決まってしまえば、大して苦労はしないんだよ」
「そういうものなのね。私には未知の世界だわ。でも……シンゴが今書いてる小説がすごく楽しみなの」
ろくに本も読まないアスカが自分の本を楽しみにしてくれている、という言葉を聞いて、シンゴは心底驚いた。けれど、シンゴは驚いたことを悟られないように表情を動かさないように努める。
「ありがとう。頑張るよ」
口ではそう言ったが、内心、ああ、やっぱり、とシンゴは溜め息をついていた。浮気をしている罪悪感から、きっとアスカはこんなことを口にしているのだ。

小説「サークル○サークル」01-267. 「加速」

「今日は随分と朝早いんだね」
シンゴはコーンスープを一口飲んで言う。
「ええ。今日はカフェには行かずに、飲み会の前に事務所寄るだけにしようと思って」
「仕事は大丈夫なの?」
「特に案件の進捗もないし、大丈夫よ。たまには家事をやる日も作らないと。今日は洗濯もアイロンかけもバッチリやってから、出掛けるわ」
アスカは言いながら、トーストに手を伸ばした。
アスカのトーストには卵とトーストの間にケチャップが塗られている。ケチャップの赤い色がちらりと見えて、アスカがケチャップ派だということを思い出していた。シンゴのトーストにはマヨネーズが塗られている。
サラダとトーストを交互に食べながら、シンゴはアスカに気付かれないようにアスカのことを何度もちらちらと観た。
アスカの様子はいつもと同じだ。キッチンに立っていた時のようなウキウキした感じは見受けられなかった。もしかしたら、浮かれている自分にはっとして、いつも通り振る舞っているのかもしれない。
シンゴはコーンスープを飲み干して、空になったマグカップの底をしばらくの間、見つめていた。

小説「サークル○サークル」01-266. 「加速」

昨日はなかなか眠れなかった。翌日、アスカを尾行すると決めていたからだ。
シンゴは目をこすりながら、ベッドから抜け出す。アスカはすでに寝室にはいなかった。
「おはよう」
寝室から出ると、エプロン姿のアスカがキッチンから顔をのぞかせて言う。
「おはよう……」
まだぼんやりとする頭のまま、シンゴは答えた。
アスカは機嫌が良い。その事実がシンゴの胸をざわつかせた。
きっとあの男に会いに行くに違いない――。
シンゴはそう思った。だからこそ、アスカはこんなにも楽しげに朝からキッチンに立っているのだ。夫であるシンゴに朝食を作るのも、せめてもの罪滅ぼしに見えた。
シンゴは顔を洗うと、Tシャツとスウェットのまま、ダイニングテーブルにつく。ぼんやりとアスカの横顔を眺めていた。
「もうすぐ出来るから」
アスカの声だけが聞こえたが、シンゴは答えなかった。
しばらくすると、ふわふわの卵焼きが乗ったトーストとサラダ、コーンスープとホットコーヒーがシンゴの前に並べられた。
アスカも自分の分を並べて、席につく。
シンゴとアスカは一瞬、顔を見合わせ、「いただきます」と口にした。

小説「サークル○サークル」01-265. 「加速」

アスカはしばらく悩んだ後、口を開く。
「そうね……。ターゲットと接触したけど、あの男をどうこうっていうのは無理だと思うの。だから、あの女の子を別れさせたいって思うような方向に持って行きたいんだけど……。今回の飲みで畳みかけるつもりではいるわ」
「そうなんだ……」
シンゴはぽつりとつぶやくように応えると、チャーハンを立て続けに口に運んだ。
「ターゲットには会わないの?」
「そうね……。状況次第ね。明日、あの女の子と別れてから、バイトしてたバーに行って、接触するのもアリかな……とは思ってる」
「今日じゃないんだ?」
「えぇ、不倫相手の状況を詳細に確認してから、ターゲットに接触して、有効な方法を取った方がいいかな……とは思ってるわ」
シンゴはアスカを尾行するなら、明日の夜だと思った。
仕事としてアスカは接触すると言っている。それは、万が一、アスカが帰って来なくてもシンゴに怪しまれない為だろう。
シンゴは次第に自分の鼓動が速まっていくのを感じていた。それは緊張から来る動悸だった。


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