小説「ワンダー」01-1~01-10.「はじまり」まとめ読み

ワンダー
僕がこうしてここにいることに意味なんてないと思ってしまうのは、きっと毎日があまりに平坦すぎて、どこか空虚な気持ちになっているからなんだと思う。

たとえば、何かもっと刺激的な毎日であるとか、情熱的な恋であるとか、そういったものが少しでも、僕のそばにあれば、そんなことを考えずに済む気がするんだ。

でも、残念ながら、今の僕にはそういったものが何もない。

ただ毎日を退屈で塗りつぶしていくだけ。

けれど、今日から劇的に何かが変わる。

そんな気がしていた。

季節は秋。一雨ごとに寒くなり、眩しかった太陽は雲に隠れがちになる。風が吹けば、ひんやりとした大気が肌に纏わりつくようになった。

僕はそんな時、偶然にも転校することが決まった。親の都合でこれまでも幾度となく学校を変わってきていたから、いつものことに違いはなかったけれど。

ただ今回の場合、大きく異なることが2つあった。1つ目は、公立校から私立校になったこと。2つ目は、共学校から男子校になったこと。特に2つ目はあまりに大きな違いで、僕自身馴染めるのか不安しかない。共学は良かった。夏場になれば、女の子は薄着になるし、可愛い笑い声だって、いくらだって聞ける。けれど、男子校はそうはいかない。男子生徒しかいないのだ。想像しただけで、ちょっと寂しくなった。前の学校を辞める時、何人かの女の子に告白をされた。僕は全て断ってしまったけれど、今から思うと勿体ないことをしてしまったのかもしれない。

職員室から教室までの道は意外に長かった。今日から僕はこの高校で各学年に1クラスしかない特進クラスへと転入する。2年生までは8時間も授業があるらしいけれど、大学進学の為なら、このくらいの我慢は必要だ。3年になれば、4時間の授業で終了して、その後の時間は受験勉強に充てられるというシステムらしい。

「美里、俺が呼んだら入って来いよ」

僕は担任の野島先生の言葉に頷いた。大きな黒目がちな目に真っ白な白衣が目立つ。化学か生物の先生だと思っていたら、担当は地理らしい。なぜ白衣を着てるのかは、勇気がなくてまだ聞けていなかった。

野島先生が教室に入ると、騒がしかった教室はあっという間に静まり返る。慌てて座った椅子のがたがたという音が少し懐かしかった。

僕は呼ばれるまでの間、廊下の窓から外の景色を見ていた。グラウンドが見える。走っている生徒は当たり前だけど、全員男だ。つまらないな、と思いながら、僕は視線を廊下へと移した。

「美里」

教室から僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。僕は深呼吸をして、ドアを開けると、真っ直ぐに教卓へと向かって歩いた。

僕は野島先生の隣まで来ると、立ち止まった。

「彼が転入生の美里 春(ミサト ハル)君だ」

僕は紹介されると、頭を下げた。

「美里 春です。よろしくお願いします」

これと言って、何かを話そうとは思わなかった。転入したのはこれが初めてじゃないし、この間いたところだって、たったの8ヶ月しかいなかった。地方のことを根掘り葉掘り聞かれたって、出て来る情報は他県の人間が知っている情報とさほど変わらない。

「美里は城崎の……って言っても、うちのクラスには城崎が2人いるんだよな……。礼の隣に座ってくれ」

「はい」

僕は短く返事をすると、野島先生が指差した空いている席へと歩いた。

窓側の前から3番目の席が僕に用意された席だった。窓の外からは何が見えるんだろう。

僕は隣の礼に会釈をすると、着席した。窓の外に目をやれば、中庭が見える。真ん中には大きな木が1本堂々とそびえ立っている。木の下には陰が出来ていて、そこで1人昼寝をしている人がいた。時折、風になびく金色の髪がやけに目立つ。校則では確か禁止されているはずだ。授業中、しかも、教室の窓から見える位置で授業をサボるなんて、よほど神経が太いのだろう。僕はその人が気になって仕方なかった。教師が注意しないところを見ると、不良の類ですでに見放されているのかもしれない。

ホームルームが終わり、午前中の授業が着々と進んでいく。転校初日から体育とか化学室で実験とか、そう言った面倒な移動がないのはありがたかった。初日から、グループを組まされるのは、気を遣う量が多くてかなわない。

やがて授業が終わり、昼休みになると、教室から次々と生徒が出て行った。購買か食堂にでも行くのだろう。僕はまだ木の下で眠っているあの人が気になっていた。昼休みを知らせるチャイムが鳴っても彼は起きる気配を見せなかったからだ。

「あのさ、春君」

名前を呼ばれて、顔を上げると、そこには名前のわからないクラスメイトが立っていた。

「オレ、城崎 礼央(シロサキ レオ)。礼の双子の弟なんだ。よろしくね」

僕は「よろしく」とだけ言った。確かに顔は礼によく似ている。2人ともどこか中性的な雰囲気があった。

「良かったら、一緒にご飯食べない? 礼も一緒だけど」

そう言って、礼央は涼しい顔をして座っている礼をちらりと見て言う。

「いいの?」

僕は遠慮がちに答えた。礼央は別としても、礼には歓迎されているようには見えなかったからだ。

「勿論! 今から、購買に買いに行くんだけど、一緒に行こうよ」

礼央は屈託のない笑顔を僕に向ける。僕もつられて、笑顔になった。けれど、礼は依然として涼しい顔をしたままだった。

「礼、行くよ」

「あぁ」

礼央の言葉に礼は返事をした。僕と礼は礼央の後をついて、教室を後にする。

「ねぇ、春君はどこから引っ越して来たの?」

「大阪から」

「へぇー、オレたちも大阪からこっちに引っ越してきたんだよ。なぁ、礼」

「あぁ」

礼は特に感情を露わにすることなく、答える。

「こっちに来ると、味付けの違いに結構苦労したんだよね。春君は大丈夫そう?」

「僕は生まれは東京だから……。親の都合であっちこっち連れて行かれてるだけなんだ。だから、だいたい、どんな味にも順応出来るようにはなってると思う」

味付けのことで苦労したという割に礼央は、流暢に標準語を話す。ただイントネーションには少し関西弁が残っていた。

「へぇ……。転勤族ってやつかぁ……」

それきり、礼央は黙ってしまった。僕の愛想のない喋り方の所為かもしれない。けれど、僕よりもっと愛想がないのは、この礼って奴だ。さっきから、ずっと黙って、廊下を歩いている。表情一つ変えることすらない。やっぱり、僕は歓迎されていないのだろうか。

出そうになった溜め息を飲んで、僕は静かに2人の後を歩いた。

「やっぱり、混んでるなぁ……」

礼央はぽつりと呟くと、僕を振り返った。

「少し並ばなきゃいけないけど、大丈夫?」

僕が「あぁ」と答えると、礼央は続けた。

「購買以外にも学食が2ヶ所あるんだけど、そこはダッシュで行かないと無理なんだよ。礼が走るのはしんどいからって、俺たちはいつも購買ってわけ」

礼央は人でごった返す購買に視線を移す。そこには金髪の生徒など1人もいなかった。やはり、あの人は不良なのだろうか。僕は中庭で居眠りをしていた人のことがやけに気になって仕方がなかった。

「やっぱり、男子校っていうのはすごいね……」

僕は礼央に言う。男子ばかりだと、どうしたって、むさ苦しくなる。けれど、礼央や礼にはそういうむさ苦しさはなかった。僕は礼央の横顔をじっと見据える。まじまじと見てみると、二重の大きな目に通った鼻筋がどこか中性的な印象を与えていることに気が付いた。適度に短くされた黒髪は艶やかで、つい触れてみたくなる。そこで僕ははっとした。礼央の前髪は右に流されている。礼央と礼は前髪の分け方が左右違うのだ。礼は左に髪を流していた。双子だけれど、礼央は活発な感じで礼はクールな感じがするから、その雰囲気で判断がつくと思っていただけに外見の特徴で判断がつくことに少し驚いた。

「俺の顔に何かついてる?」

僕の視線に気が付いた礼央が言う。

「君たちの髪の分け目が左右逆になってるんだなって思って」

「そうなんだ。別に見分けがつくようにって気を遣ってるんじゃなくて、生まれつき渦の位置が逆なんだよ」

「へぇ……」

僕は感嘆し、礼央と礼を見比べる。しかし、礼は購買を真っ直ぐ見つめたままで、何か言う素振りはなかった。もしかしたら、僕たちの話を聞いてないのかもしれない。

「ごめんね。礼の奴、愛想ないんだ」

「いや、気にしてないよ」

僕は本心から言ったけれど、礼央はそうは思っていないようだ。別に愛想を振りまく奴がいい奴だとは限らない。腹黒い奴ほど愛想が良かったりするのだ。そう考えると、礼は自分に素直なだけだとも言える。

「……どうするんだ? これじゃあ、3人とも昼ごはん食べられないぞ」

礼は視線だけを動かして、礼央を見る。その目は何を言いたいのかよくわからない。イラつきも呆れも、何も感じ取れない目だった。

「そうだね。困ったなぁ……」

礼央は溜め息をつき、再度購買へと目を移した。そこには人だかりが出来ている。この人だかりの中に突っ込んでいく元気も勇気も僕は持ち合わせていなかった。

「よぉっ! こんなところで何してるんだ?」

突如背後に気配が生まれ、声がする。僕は驚いて振り向いた。

「ん? おまえ、見かけない顔だな」

「あっ……」

僕は男の髪を見てはっとした。中庭で居眠りをしていた人だ。

「藤堂先輩!」

礼央が嬉しそうに笑って、男の顔を見上げた。

礼央が藤堂先輩と呼んだ金髪の人は、ゆうに180センチはありそうだった。その長身は、同性の僕から見ても大きく感じる。

「彼は美里 春くん。今日、転入してきたばかりなんです」

「へぇ、転入生か。どうりで見かけない顔だと思ったよ。俺は藤堂 薫(トウドウ カオル)。おまえらの1つ上の学年だ」

僕は「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。藤堂 薫は端正な顔立ちに色白の肌が特徴的だった。金髪もよく似合っている。不思議な魅力のある人だな、と思った。心なしか、他の生徒が藤堂先輩を避けて通っているように感じる。やっぱり、少しヤバイ人なのだろうか。けれど、礼央や礼の様子を見ていると、そんな感じはしない。

「藤堂先輩はもう昼ごはん食べたんですか?」

礼は購買を見るのをやめ、藤堂先輩を見上げて言う。どうやら、礼は先輩にだけは気を遣えるらしい。

「まだだよ。俺、さっきまで寝てたもん」

「また中庭で昼寝ですか?」

礼央の言葉に藤堂先輩は笑って「そうだよ」と答える。2人の位置からは藤堂先輩の昼寝が見えないんだということに、この時初めて気が付いた。確かに、僕の席からでギリギリ見えたのだから、仕方がない。

藤堂先輩は混んでいる購買を一瞥すると、予想外の一言を口にした。

「じゃあさ、一緒にコンビニ行かない?」

「でも、放課後まで校内から出るのって禁止じゃ……。もし見つかったら、学校に連絡されるようになってるって聞きましたけど……」

僕は転入する時に言われたいくつかの注意事項のうちの1つを口にする。けれど、藤堂先輩はそれを鼻で笑った。

「そういうもんは破る為にあるんだよ」

「今までも何回やってるけど、バレてないから大丈夫だよ」

意外なことに礼央までが平然とそんなことを言う。僕は助けを求めようと礼を見た。

「藤堂先輩が一緒だったら、大抵の場所は大丈夫だ。学校に連絡される心配はないからね」

礼は当たり前だと言わんばかりの言い方で言うと、僕を見た。

「心配なら、ここに残っててもいいけど?」

その挑発的な言い方に、僕は思わずかちんと来て、「僕も行きます!」と言ってしまった。これでもし学校に連絡されて、停学にでもなったら、きっと最速停学処分になってしまうに違いない。想像して、思わずぞっとした。

僕たちは教師にバレないように校門を出ると、右手に曲がった。歩いて5分程度のところにコンビニがある。金髪の藤堂先輩はやけに目立った。僕は出来る限り、顔が周りから見えないように俯いて、道路を歩く。

「下ばっかり向いて、ビビってるの?」

礼は試すような口ぶりで僕に言った。

「そんなわけないだろう?」

僕は言うと同時に背筋を正して、礼を見た。礼にビビりだと思われるのは癪だったのだ。礼央と違い、礼はなんだか鼻につく奴だ。

「まぁ、いいや。それより、クラスにはなじめそう? 共学から来たんでしょ?」

僕は一言も共学から来たなんてことは言っていない。きっと野島先生が事前に僕のプロフィールを簡単に説明していたのだろう。

「多分、大丈夫じゃないかな。いじめなんて低レベルなことをやりそうな人たちもいないし、共学とは勝手が違うことも多いだろうけど、大きな違いは女の子がいないくらいだろうし」

僕は思ったことを言った。その言葉に礼は何度か頷いた。その頷きは同意だろうか。

「女の子がいないとつまらなくない?」

「別に大して変わらないかな。まぁ、購買のああいう状況を見ると、さすがにむさ苦しいな、と思うけど」

「そりゃそうだろうね。男子校だからって、美少年ばかりがいるわけじゃないし」

礼は涼しい顔をして言った。それは自分のことを言っているんだろうか。だとしたら、なかなかの自信家だと僕は思った。

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ワンダー(前編)ワンダー(後編)

小説「サークル○サークル」01-1~01-10.「依頼」.まとめ読み

サークル〇サークル画像
「お願いがあるんです」
 女は事務所に入ってくるなり、そう言った。ここは別れさせ屋「エミリーポエム」ちんけなこの名前を考えたのは他でもないここの所長であるアスカだ。
 アスカは女に視線をやり、銜えていたタバコを口から放すと、煙を吐き出した。
「あなたは?」
「先日、お電話させいただいたカイソウ マキコと申します」
 女の名前を聞いて、アスカは目だけ天井に泳がせる。彼女が何かを思い出そうとする時の癖だった。
「あぁ、ご主人の不倫をやめさせたい、って言ってた?」
「そうです。主人とその不倫相手を別れさせたいんです!」
 マキコはぎゅっと手を握りしめ、吐き捨てるように言った。
「今、お茶を淹れますから、どうぞそちらにかけて下さい」
 アスカは至って事務的にマキコに言うと、短くなった煙草を灰皿に押しつけ、キッチンへと消えた。エミリーポエムは古びたビルの2階に位置する。キッチンも旧型で使い勝手は悪かったが、お湯が沸かせればいいと思っているアスカにとっては、別段問題はなかった。

 アスカはやかんに水を入れると、強火にかける。今時、ポットを使わないなんて珍しい、と思いながら、マキコはソファに腰を下ろした。
 お湯を沸かしている間、アスカはティーポットにティーリーフを入れる。何事にも大した興味を示さないアスカだったが、紅茶にだけはこだわりがあった。キッチンの引き出しには、珍しい紅茶がいくつもストックされ、気分や来客者によって、味を変える。客であろうと、敬語をほとんど使わない無神経なところはあったが、相手によって紅茶の味を変えるなどという細やかな気遣いをする一面も彼女は持ち合わせていた。
やかんのけたたましい笛の音が事務所に鳴り響く。やかんはせわしなく、お湯か沸いたことを知らせ続けた。アスカは慌てるそぶりもなく、のんびりとした動作で火を止めると、ティーポットにお湯を注ぐ。かぐわしい紅茶の匂いが事務所に広がった。アスカはしっかり3分待って、ティーカップに紅茶を淹れた。
 トレイには、ソーサの上に乗った紅茶の入ったティーカップと角砂糖、それから皿の上にはアスカが昨日買っておいたスコーンが乗せられていた。
「お待たせしました」
 アスカは言うと、マキコの前に紅茶を置く。全てを置き終わると、彼女はマキコの向かいのソファに腰を下ろした。

「どうぞ、召し上がって下さい」
 アスカは紅茶に手をつけようとしないマキコに言った。彼女はそんなアスカを遠慮がちに見る。
「あの……ミルクってありますか?」
「ごめんなさい。ミルクは用意してないの。この紅茶はストレートで飲んだ方がおいしいから、大丈夫よ」
「……」
 マキコにとっては、そういう問題ではない。マキコは口をつぐみ、砂糖を大量に入れると、紅茶に口をつけた。
「あの……それで、依頼は受けていただけるのでしょうか?」
「えぇ。受けること自体に問題ないわ。ただ金額の折り合いがつけば、といったところかしら」
「お金ならあります! パートで貯めたお金がありますから」
 真剣な目をして言うマキコに「失礼」と言って、アスカは煙草に火をつけた。
 たかがパートでいくらのお金があるって言うんだか……。
 アスカは内心そう思ったものの、口には出さず、煙草の煙を吐き出した。
「結構、かかるわよ?」
「それは承知の上です! 300万、用意しました」
「300万!?」
 パートで貯めたと言われ、アスカは50万、多くて100万程度だろうと思っていたので、心底驚いた。
「だから、お願いします! どうか、主人とあの女を別れさせて下さい!」
「……わかったわ。この依頼、正式に引き受けさせてもらうわね」
 アスカは300万という大金に思わず顔がにやけそうになるのを必死で堪えながら、神妙な面持ちで言った。

「ご主人の写真はある?」
 アスカの問いにマキコはバッグから1枚の写真を取り出した。
 いいバッグ持ってるわねぇ、とマキコのバッグを見ながら、アスカは思う。もしかしたら、マキコはパートで稼いだと言っているが、親が金持ちなのかもしれない。だったら、300万も貯金出来るのも納得出来る。
 アスカは写真を受け取ると、視線を写真へと落とす。
写真の中のマキコの夫は、眼鏡がよく似合うキレイな顔立ちの男だった。インテリな雰囲気を漂わせているが、全く嫌味な感じがしない。それだけではなく、この手の男にありがちないけ好かない感じや胡散臭さが微塵も感じられなかった
 なんだ、浮気野郎にしてはイイ男じゃない……とアスカは思ったが、それを表情に出さないように努めた。ここで顔に出してしまうと、信用問題に関わることを彼女は知っている。
「で、このご主人が浮気をしている、と」
「はい。そうなんです!」
 まぁ、これだけイイ男なら、黙ってても女が寄って来るわよね、と言いそうになったが、アスカはそんなことを思っているなんて、おくびにも出さずに話を続けた。
「別れさせてほしいってことは、もう浮気相手もご存じ?」
「はい……」
「その方はご主人とは、どういうご関係かしら?」
 アスカは写真に視線を落としたそのままで、マキコに問うた。

「主人の勤めている会社のビルに入っているセルフサービスのカフェの店員のようなんです……」
 マキコは伏目がちに言った。
「へぇ……」
 浮気の種類としては、特に珍しいパターンではなかった。男は身近な女に手をつけることが多い。社内で不倫をしている人間が多いことからもそれは明白だ。
 アスカは煙草の煙を吐き出すと、まじまじと写真を見た。この手のモテる男というのは、女好きが多く、落とすのは大概簡単だ。けれど、自分がモテることを自覚している分、何人も女を囲おうとするタイプが多い。たちが悪いかもな、とアスカは写真を見ながら眉間に皺を寄せた。
「期限の希望はおありかしら?」
「別れさせてくれるなら、特には……。ただ早ければ早いほど、嬉しいです。出来れば、この子が生まれてくるまでには……」
 そう言って、マキコは自分の腹をさすった。アスカはマキコの腹を見据える。
 やることはしっかりやってたってわけね……とアスカは内心ごちる。
「今、何ヶ月目?」
「3ヶ月です」
「そう……。半年以内……出来れば、3ヶ月以内には決着をつけたいところね」
「お願いします!」
 マキコは深々と頭を下げた。必死に頭を下げるマキコを見て、アスカは顔を上げるように言うと、金額の説明を始めた。

 アスカはマキコを送り出すと、仕事の段取りを決める作業に入った。今回のターゲットは依頼主の夫である「カイソウ ヒサシ」だ。彼は大手企業の会社員で年齢は31歳。アスカより2歳年上だ。マキコの話によると、よく行くバーがあるという。そのバーは「エミリーポエム」から3駅離れたところにある「crash」というバーらしい。アスカはそのバーでヒサシに接触するつもりでいた。
現在、「エミリーポエム」には数名のアルバイトのスタッフがいたが、別の案件で出払っていて、実質今動けるのはアスカしかいない。幸い、今回のターゲットとは年齢も近く、接近するのにはさほど困らない。ただもう少し美人でスタイルが良ければ、余計な不安など持たなくていいのにな、とアスカは思う。
「さーて、どうしたもんかなぁ……」
 椅子に踏ん反りがえって座り、足を机の上に置く。お世辞にも行儀の良い格好とは言えなかったが、1人でいるからこそ、出来る格好でもあった。
「落とすのは簡単……だけど、別れさせるのが難しいタイプなのよね……」
 1人でぶつぶつと言いながら、アスカは自分の考えを整理していく。こうやって、自分の中にある考えに筋道を立てていくのが彼女の習慣だった。口に出すことで自然と矛盾が解決される、というのが彼女の持論なのである。

「……」
 ぴたりと彼女の独り言が止まる。それと同時に机から足を下ろすと、机の上にある煙草に手をやった。それはアスカの考えが行き詰まったことを意味していた。最後の1本を取り出すと、火をつける。アスカは思い切り肺に煙を吸い込むと、目を閉じた。
「やり方は1つじゃない……。だけど、どうすればいい?」
 誰もいない事務所で誰かに問いかけるようにアスカは言う。無論、それは自分に対する問いかけにしか過ぎない。
 あっという間に煙草は短くなり、アスカは仕方なく、灰皿に煙草を押しつけた。細く揺れる煙にアスカは溜め息をつく。煙草がなくなったのが、仕事終了の合図だった。彼女は帰り支度を済ませると、戸締りと火の元を確認し、電気を消して、事務所を後にした。彼女の自宅は事務所から自転車で10分程度のところにあるので、通勤は決まって自転車だった。雨の日も彼女は河童を着て、自転車で通勤する。健康の為、という建前はあったが、本当の理由は年齢を重ねるごとに少しずつ出っ張って来た下腹を引っ込める為だった。中年太りをするにはまだ早い、と思っていたが、20代も後半に差し掛かると、身体は正直なもので、10代とは違った動きをし始める。それから逃れるように、アスカは自転車通勤で気を紛らわせていた。しかし、残念ながら、彼女は効果をさほど感じられてはいなかった。

アスカは事務所の階段横に停めてある自転車にまたがると、颯爽と走り出す。夕陽に染まっている商店街に目を細め、右へ左へとハンドルを切る。しばらくすると、どこにでもあるような茶色い外壁のマンションが目の前に現れた。彼女は駐輪場に自転車を置くと、エレベーターに乗り込み、3のボタンを押す。1年前に新築で購入したこのマンションも、今では当時の輝かしさはなかった。アスカは購入する時に3階にこだわった。それは何か事故が起きて飛び降りなければならないことがあっても、3階ならば飛び降りても死なないだろう、と思ったからだ。実際、1年経ってもそんなハプニングに見舞われることはなかったし、きっと今後もそんなハプニングに見舞われることはないだろう。時折、突拍子もないことを考えるのが彼女の長所でもあり、短所でもある。
 3階でエレベーターが止まると、アスカはキーを解除し、玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
 アスカは靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、リビングへと向かった。
「おかえり。今日は早かったね」
 アスカを出迎えたのは、夫のシンゴだった。ぼーっとした雰囲気のいまいち冴えない男である。

「煙草が切れちゃったから仕事を切り上げたの……って、いけない。煙草買うの忘れちゃったわ」
「煙草なら、買っておいたよ。そろそろ、切れる頃だろうと思ってね」
「あら、気が利くじゃない」
「君と一体何年付き合ってると思うんだよ」
「10年くらいかしら?」
「そうだね。結婚する前から数えるとそのくらいだろうね」
 アスカは荷物をソファの横に置くと、手洗いとうがいをする為に洗面所へと向かう。その間にシンゴはキッチンで料理を温め直していた。
 食卓テーブルに着くと、アスカの前には次々とアツアツの料理が並べられた。
「おいしそう!」
「僕が作ったんだから、おいしいに決まってるよ」
 シンゴは得意げに言った。こんなことで胸を張っている場合ではないということに、彼は気が付いていない。彼の本職は作家である。その仕事が上手くいかないから、普段はほとんど主夫業に専念しているのだが、そのことに対して危機感がこれっぽっちも感じられなかった。それがアスカの悩みのタネでもある。
「いただきます」と言って、アスカは料理に箸をつけた。チーズグラタンと様々な野菜の入ったサラダに、パンプキンスープ、フランスパンはご丁寧にガーリックトーストにされていた。
 無言で次々と口に運んでいくアスカを嬉しそうに見ながら、シンゴは向かいの席に腰をかけた。

アスカはシンゴの気配に気が付いて、顔をあげる。
「そう言えば、調子はどう?」
 アスカは食事をしていた手を止めて、シンゴに問うた。
「まぁまぁってところかな。アイデアは浮かぶんだけど……。結末が思いつけなくて」
 苦笑するシンゴを見て、へらへらして言うことじゃないだろう、とアスカは思ったが、口には出さなかった。そんなことを言ったところで、この男の性格が改善されるわけではないことを、彼女はよく知っていた。
「結末が思いつかないんじゃあ、どうしようもないわね」
「そうなんだよ。結末が決まってないと、プロットは出せないからね。プロットがなければ、小説を書きだすことは出来ないし……」
 小説の骨組みとなるプロットは、物語の始まりから終わりまでを端的に書いたものだ。これがなければ大抵の場合、編集者に小説の執筆に入らせてもらえないことが多い。結末が浮かばないシンゴにはこの最初の段階であるプロットすら書けないということだ。それは仕事が全然進んでいないことを意味する。アスカは溜め息をぐっと飲み込み、続けた。
「結末は浮かびそうなの?」
「あとちょっとってところかな」
「それ、1か月前も言ってなかった?」
「あぁ、あの時の小説は結局ボツにしたよ。あれは今思うと全く面白くなかったからね」
シンゴは悪びれる風もなく、いけしゃあしゃあと言い放った。

続き>>1-11~01-20.「依頼」.まとめ読み

【森野はにぃ】「ワンダー」10話配信☆


みなさん、こんにちは。

森野はにぃです。

本日、10話が配信されました。

早いものでもう10話なんですね。

共学育ちの森野は、男子校や女子校というのは、

友達からの話に聞いて知っている程度なので、

今回舞台を男子校にするのは、ちょっぴり勇気がいりました。

しっかり男子校や遠い過去となってしまった高校生活を思い出しながら、

頑張って書いていきたいと思います!

ですので、11話の配信も楽しみにしていて下さいね☆


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