小説「サークル○サークル」01-188. 「加速」

「うん、ありがとう」
 アスカはそう言うと、コートを部屋にかけに行く。
 アスカはなんだか最近の自分とシンゴの関係に不思議な安心感を得ていた。それは今まで感じたことのない安心感だった。
 けれど、アスカがそういった安心感を得られているのは、ヒサシの存在が大きいこともわかっていた。ヒサシとの一件があってから、罪悪感からシンゴに対する態度が自分でも優しくなったと自覚していた。そんな時、シンゴが仕事にやる気を出し、会話が増えた。いろんなことが重なった結果だったが、それが良かったのか悪かったのか、アスカにはわからない。ただ夫婦関係を立て直すという意味では良かったと言える。しかし、アスカの恋心から見れば、それは良いことだとは言い切れなかった。ヒサシへの想いが募っていくのに、シンゴと関係が良くなれば、万が一、ヒサシの下へ行くことになった時、シンゴを必要以上に傷つけてしまうことになる。それはあんまりにもひどい仕打ちのような気がしていた。

小説「サークル○サークル」01-171~01-180「加速」まとめ読み

シンゴにジムに通えばいいと言われたものの、アスカは戸惑った。
「何か不都合でも?」
シンゴに問われ、アスカは渋い顔をする。
「ジムに通う時間はないし、費用的にもしんどいわ」
「どうにか捻出出来ないの?」
シンゴの言葉にアスカはしばし考え込む。シンゴは静かにアスカの言葉を待った。アスカは溜め息をつくと、話し出す。
「私が直接関わってるのは、この依頼だけだけど、所長として目を通さないといけない書類もあるわ」
そう言って、アスカは肩をすくませた。
「でも、オフィスビルの社員を演じるには、いささか無理がある。君の面が割れていないのなら、話は別だけど、そういうわけでもないだろう?」
「それはそうだけど……」
アスカは視線を落とした。シンゴも別に何かいい方法はないかと考えを巡らすけれど、良さそうなものは何も浮かばなかった。
「ジムに時間を取られるってことは、その分、何かの時間を削らなきゃいけないってことなのよ。今はぴったり時間を使い切ってるもの、無理だわ」
きっぱり言い放つアスカに、シンゴはにっこりと微笑んだ。
「それなら、いい方法がある」
「えっ?」
アスカはシンゴの言っている意味がわからず、眉間に皺を寄せた。

「いい方法?」
アスカは怪訝な表情を浮かべたまま、シンゴを見た。シンゴは笑顔を崩さぬそのままで説明し始める。
「そう。いい方法。時間を作らなきゃいけないなら、今まで通り、僕が家事をやればいい」
シンゴの言葉にアスカは再び眉間に皺を寄せた。
「でも、シンゴだって、仕事が忙しいでしょ?」
「忙しいけど、僕の場合は家にいられるし、君ほど、忙しくもないよ」
「でも……」
「この案件が終わるまで、っていう期限付きなら、君が気にしていることもクリア出来ると思うけど」
アスカはシンゴの提案について、じっと考え込む。アスカの頭の中を様々な考えが過ぎった。シンゴの仕事の邪魔をしたくない、シンゴに負担をかけたくない、だけど、受けた依頼は成功させたい――考えれば考えるほど、何を優先すべきかがわからなくなっていく。
「そんなに悩むことじゃないと思うけどな。期間限定なわけだし」
シンゴは柔らかな笑みを浮かべて、アスカを見る。アスカはその微笑みに思わず「ありがとう」と言っていた。

「それじゃあ、決まりだね。取り敢えず、ジムの入会申し込みをしなくちゃいけない」
「そうね、今日の夕方行ってくるわ」
「バーの仕事は辞めてしまったわけだから、設定上、別の仕事に就く必要がある」
「でも、私が演じられて、バレそうもない仕事なんて、別れさせ屋くらいしか思いつかないわ」
アスカは不安げな表情を浮かべ、シンゴを見た。
「それなら、問題ないよ。別れさせ屋だって答えればいい」
「ターゲットの不倫相手よ!? そんなこと出来るわけないじゃない」
「自分とその不倫相手をターゲットにしている別れさせ屋が、自分から別れさせ屋だって明かすなんてことはないだろう? 裏をかくんだよ。きっと相手は油断する」
「そんな……リスクが高すぎるわ」
「リスクは高いかもしれない。でも、レナのプロフィールを見る限り、その方が効果的だと僕は思う」
自信に満ちた表情でシンゴは言う。アスカはそんなリスクの高いことは出来ないと思いながらも、シンゴがそこまで言うのなら、大丈夫なのではないかと思っていた。
「……わかったわ。シンゴがそこまで言うなら、それで行きましょう。詳しい設定は帰宅後に見せて」
アスカはシンゴの瞳をじっと見つめてそう言うと、パスタを再びフォークに巻き始めた。パスタはもうすっかり冷めてしまっていた。

シンゴは内心、不安でしょうがなかった。アスカには自信のある素振りで話をしたが、裏をかいても成功する保証はない。実際にレナと会ったこともないのだから、その方法が効果的なのかも、実のところ定かではなかった。
しかし、シンゴがあんな言い方をしてしまったのには、理由があった。一つはアスカに頼りになる男だと思ってもらいたいという虚栄心の所為だ。そして、もう一つは、作家としての意地だった。
作家自身が作り出した架空の人物とは言え、小説では登場人物の人生を描くのだから、一般の人に比べれば、人間観察をしている時間も多いし、観察眼だって鋭いとシンゴは思っている。否、鋭くなければ困るのだ。それは仕事上の不便というよりは、プライドに起因する部分が大きい。
「後片付けは僕がやっておくよ」
アスカの空になった皿を見て、シンゴは言った。
「ありがとう」
アスカは笑顔で礼を言うと、まだ食べているシンゴの顔をまじまじと見た。
「どうかした?」
「なんだか、ちゃんとシンゴの顔を見ていなかった気がして」
「顔を合わせてるのに?」
「うん、そういうことじゃなくて。何でもないわ」
アスカは苦笑して、コップに手を伸ばした。

食事を終えた後、アスカは身支度をして、仕事へと出掛けた。帰りにそのままジムの入会申し込みをしてくるそうだ。
シンゴはパソコンの前に座り、電源を入れ、立ち上げる。アスカが帰ってくるまでに、設定を作り直す為だ。
いつも通り、文章を作成していく。
大方、設定が出来上がったところで、ふとターゲットのことが過ぎった。
今、こうして、自分が設定を作っている間にも、アスカとターゲットは会っているのだろうか。そう思うだけで、シンゴの胸の奥は予想をはるかに超える痛みを訴えた。シンゴはこんなことを考えることにも慣れたと思っていたし、ある程度の諦めもついているような気でいた。
しかし、本当はそんなことはない。ただただアスカに自分だけを見ていてもらいたいのだ。
ふいにアスカが食事中に言った「なんだか、ちゃんとシンゴの顔を見ていなかった気がして」という言葉を思い出していた。
シンゴはアスカがどういう気持ちで言ったのかを考えて、溜め息をついた。

同じ家にいるから、そこにいるのが当たり前で、そこに存在しているという事実しか確認していなかった、とアスカは言いたかったのでないか、あれは後悔の一言なのかもしれない、とシンゴは思った。
アスカはターゲットと後戻りの出来ない関係になってしまった。けれど、最近、シンゴとちゃんと向き合うようになり、シンゴの良さを改めて確認し、今度はシンゴをないがしろにして、ターゲットに走ってしまったことを後悔し始めている――それが、シンゴが導き出した答えだった。
シンゴはさっきよりも深い溜め息をつくと、作り上げた設定をざっと読み直し、誤字脱字がないことを確認する。プリンターの電源をオンにすると、プリントアウトし、再びその原稿に間違いがないか確認した。
一つのテーマについて、ずっと考えていると、気持ちは荒んでくるし、いい方向になど何一つ考えられなくなってくる。やがて、ドツボにハマり、自分を苦しめていく。そして、そういった重たい空気は相手にだって、いつしか伝わってしまう。けれど、それ以上にシンゴはあることを心配していた。それは、あの日の夜見たことをアスカに言ってしまうのではないか、ということだった。

アスカの後をシンゴがつけていたなんてことがアスカにバレれば、軽蔑されたって仕方がない。アスカの性格上、「私が不安にさせてしまったのね。ごめんなさい」なんてしおらしいことを言うタイプではないことは、シンゴが一番よく知っている。
アスカが浮気をしていて、尚且つ、シンゴがアスカの後をつけていたことがわかれば、離婚は免れないだろう。離婚はシンゴにとって、最悪の結末だ。その最悪の結末を回避する為に、シンゴは今必死でアスカの仕事に協力し、仕事にも精を出している。
動機は不純かもしれないけれど、そのくらいシンゴにとって、アスカはかけがえのない存在だった。
シンゴはプリントアウトした原稿を持って、リビングへと向かう。ソファの前にあるローテーブルに置くと、ゆったりとソファに腰をかけた。足を組み、テレビをつける。テレビにはワイドショーが映り、大物演歌歌手のスキャンダルが取り沙汰されていた。ぼんやりとしたまま、テレビに視線を向けていると、シンゴはうつらうつらとし、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。

シンゴが目を覚ますと、夕飯の匂いが鼻先をついた。目を開け、光を感じると、視界が開ける。ぼんやりする頭のまま、キッチンに目をやると、そこには髪を束ね、エプロンをしているアスカの姿があった。
「ごめん……。寝ちゃってたみたいだ」
シンゴはソファからアスカに声をかける。
「いいのよ。疲れていたんでしょう?」
アスカは微笑む。その笑顔にシンゴはじんわりと込み上がる幸せを感じていた。
「仕事は終わったの?」
「ええ。ちゃんとジムにも入会して来たわ」
「じゃあ、あとは、レナと接触すればOKってこと?」
「そうなるわね」
アスカは調理中の料理から視線を外さずに、シンゴに答える。
「レナと接触して、ターゲットと別れさせたら、今回の仕事はやっと終わるわ」
その一言に、シンゴはドキリとした。この仕事が終わったら、アスカはどうするつもりなのだろう、と思ったのだ。アスカはシンゴを捨て、ターゲットと付き合うつもりだろうか。それとも、ダブル不倫をやってのけるつもりだろうか。
仕事が終われば、これっきりとなればいいけれど、そんな生易しい現実が待っているとはシンゴには到底思えなかった。

「もうすぐ出来るから、顔でも洗ってきたら? なんだか眠そう」
アスカは鍋から目を離すと、シンゴの顔を見て言う。
「……うん、そうだね」
シンゴはソファから立ち上がると、アスカに言われた通り、洗面所へと向かった。
冷たい水で頬が濡れる。じゃぶじゃぶと顔を洗うと、フェイスタオルで水を拭った。冷たさから解放されて、なんだかほっとする。そのまま、シンゴは顔を上げた。
洗面台の鏡に映る自分を見て、思わず溜め息をつく。ちっとも冴えない顔をしていたからだ。
こんな冴えない自分とアスカが釣り合うわけなんてない、とシンゴは思う。けれど、一度はそんな自分でも好きになってもらえたのだから、たとえアスカの気持ちがターゲットに移ろっても、もう一度好きになってもらうことは出来るはずだ、とも思う。
しかし、一度こぼれた水が元に戻らないように、一度壊れた夫婦関係が元に戻ることはないようにも思えた。
堂々巡りの想いに、シンゴはどう向き合っていいのか、次第にわからなくなりつつあった。

洗面所からリビングへ戻ると、アスカがテーブルに食事を並べていた。今日はクリームシチューだった。
「ちょうど今出来たところよ。座ってて」
アスカは手際よく、食卓にサラダやパンを並べる。シンゴは席に着くと、甲斐甲斐しく働く妻の姿をまじまじと見た。
「これで全部揃ったわね」
テーブルに並べられた料理を見て、アスカは小さく頷くと、椅子に座った。
「食べましょうか」
アスカに笑顔で言われ、「ああ」とシンゴは答えた。
「いただきます」
二人で声を揃えて言うと、アスカとシンゴは食事に手をつけた。
「そうそう、このパン、今日ジムの帰りにパン屋さんで買って来たの。すごく美味しいって有名みたい。雑誌でも取り上げられたことがあるんですって」
アスカは嬉しそうにパンの説明をする。
「へぇ、そんなパン屋があの辺にあるなんて知らなかったなぁ」
シンゴは言いながら、パンに手を伸ばした。
一口サイズにちぎり、ぽんっと口に放り込む。ふんわりとした食感とパンの甘味が口いっぱいに広がった。
「有名店だけあるね。美味しいよ」
「良かったぁ」
アスカは柔らかな笑顔で応えた。こんな笑顔をずっと見ていたいとシンゴは心の底から思った。何気ない日常にこそ、幸せはあるのだな、とシンゴは痛感していた。
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【森野はにぃ】睡魔との戦い!


みなさん、こんにちは。

森野はにぃです。

本日、「ワンダー」が配信されました。

あっという間に今年も11月に突入ですね。

今年も残り1年半だなんて不思議です(笑)

最近、異様な睡魔に襲われる……と思っていたのですが、

睡眠時間が明らかに足りていない模様です。

そして、今日も睡魔と戦いながら1日を頑張ろうと思います!

そんなわけで、皆様もお仕事に学校、家事など頑張ってくださいね!!

それでは、引き続き、「ワンダー」をお楽しみ下さいませ☆

小説「サークル○サークル」01-187. 「加速」

 退屈だな、とアスカは思うけれど、レナの観察を怠るわけにもいかない。どんなタイプなのかをしっかり見極められれば、接触した時の攻略方法も自然と見えてくる。
 アスカ煙草に手を伸ばす。けれど、煙草の箱は空になっていた。
「……」
 からっぽの煙草の箱を見て、アスカは溜め息をついた。カップの中にはまだホワイトモカが残っている。
 アスカはホワイトモカを一気に飲み干すと、飲み終わったカップを返却口へと持って行った。
「ごちそう様でした」
 アスカが声をかけると、少し離れたところから、「ありがとうございました」という声が飛んできた。
 アスカは初日の偵察を終えると、まっすぐに帰路へと着いた。
 何かと疲れる1日だな、と内心ごちた。

 アスカが帰宅すると、シンゴが夕飯の準備をしていた。
「ただいま」
 アスカが言うと、キッチンにいたシンゴが漸く気が付いたようで、キッチンから少し顔をのぞかせた。
「おかえり。あともう少しで夕飯出来るよ」
 シンゴは笑顔でアスカを出迎えた。

小説「サークル○サークル」01-186. 「加速」

 アスカはカウンターでホワイトモカを受け取ると、喫煙席へと向かう。
 ガラスで区切られたスペースに灰皿を持って行き、レナの姿がよく見える席を選んで、
ソファに腰を下ろした。アスカの他に客は1人しかいない。会社の就業時間内なので、こんな時間に店内でのんびりくつろげる人は少ないのは当たり前だった。
 アスカはホワイトモカに一口、口をつけると、すぐさま煙草に火をつけた。ホワイトモカが思いの外、甘かったのだ。アスカは毎日飲む地震をなくしていた。
 けれど、ゆっくり時間をかけて飲むことを考えると、これはこれで良いような気がしていた。
 レナはどの客にも笑顔で接している。勤務態度は至って真面目で、嫌味など全くない。大きな瞳にふんわりしたボブヘアが女の子らしく、大抵の男なら、レナのようなタイプにはいとも簡単になびいてしまうような気さえした。
 アスカはホワイトモカをちびちびと飲みながら、そのほとんどの時間を煙草を吸うことに費やしていた。


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