「それで僕に相談したいことっていうのは何?」
「レナに接触する時の私の設定を作ってほしいの」
「設定?」
「ええ。要するに、私は登場人物Aを演じるってこと。私としてじゃなく、登場人物Aを演じて、レナと接触して、仲良くなるつもり」
「今までもアスカとしてではなく、別人としていろんなターゲットに接触してきただろう?」
「それはそうなんだけど、今回はかなり作り込まないと難しそうなのよ。環境も特殊だし。素性を曖昧に出来るような環境じゃないから。だいたい、OL経験なんてないし」
「なるほどね……。よし、わかった。僕が作ろう」
「本当に!?」
「ああ。そんなに喜ぶなんて、意外だな。僕が断るわけないって、思ってただろう?」
「ううん。シンゴ、最近、仕事忙しそうだから、作ってもらうの無理かなって思ってたの」
「アスカの頼みを断るわけないじゃないか」
そう言って、シンゴは微笑んだ。そして、アスカはほっと胸を撫で下ろす。
これで第一関門は突破出来ると思った。シンゴが設定を作ってくれたら、あとはその設定を完璧に覚え、そういう人間を演じればいい。高校時代演劇部に所属していたこともあるアスカは、演技にはそれなりの自信があった。
アスカはシンゴと話す為に身体を少し前に乗り出す。
「この間までバーで働いていたでしょう? あの時にターゲットがこの女の子を連れて来てたのよ」
「アスカとこのレナって子は、面識があるってこと?」
「向こうが私を覚えていない可能性もあるから、そこはなんとも言えないんだけど、接触はしてる。もし私のことを覚えてたとしたら、いきなりカフェの店員になって現れたら、怪しまれると思う」
「そうだね……。チェーン店なら、飲食店の派遣はあるだろうけど、アスカの働いてたバーは個人経営だろ?」
「あれ……。私、シンゴにどんなバーで働いてるか言ってたっけ?」
「い、いや……そんな気がしただけだよ」
しどろもどろになるシンゴにアスカは小首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。きっと、書いている小説のこととでも、混乱しているのだろう、とアスカは流すと話を元に戻す。
「それでね、このレナって子に接触するにあたり、私はこのカフェの常連になろうと思うの」
「このカフェの?」
「そう。ただ、1つ問題があるのよ」
「どんな?」
「ここのカフェ、ターゲットの働くオフィスビルの1階に入ってるの。勿論、このビルに勤めてる人間以外も使ってるわ。だから、私が使うのはおかしなことじゃない。だけど、いきなり常連になるにはそれ相応の理由が必要なのよ」
「レナと接触した時の説明用にってこと?
「その通り。さすが、作家だわ」
アスカの一言にシンゴは照れ笑った。
アスカの別れさせ屋としての勘が外れていて、ただ単にアスカの嫉妬心を煽るだけの為にヒサシがあの女をつれて来たのかもしれない、とほんの一瞬アスカは思った。思ったというより、そう思うことによって、自分が傷付かないようにしているのだ。あんな若い女の子に自分が勝てるとは到底思えなかったからだ。
コースターに視線を落とし、しばし見つめる。かけてしまおうか、と思ったものの、何も出来ずにアスカはコースターをゴミ箱に捨てた。
けれど、ヒサシの番号はしっかりと目に焼きついていた。いつだって、コールをすれば、ヒサシが出る。ヒサシが出れば、わざわざこの店でなくとも、ヒサシと繋がることが出来るのだ。
そこまで考えて、アスカはかぶりを振った。自分の浅はかな考えに思わず苦笑する。あくまで自分がしているのは仕事であって、恋愛ではない。何度同じ問答を繰り返したら、心が揺れずに済むのだろう、とアスカはふと思う。そして、アスカは知っていた。会わなければ次第に恋心は薄れていく。だったら、接触さえしなければいいのだ。
アスカは深呼吸をすると、マスターの元へと向かった。
シンゴはさえない顔をして、公園のベンチに座っていた。冴えない男の前には鳩すら寄ってこない。遠くで群れをなす鳩に視線を投げかけ、シンゴは溜め息をついた。
あぁ、また幸せが逃げた、と思うけれど、溜め息を止めることは出来なかった。
仕事は順調だ。小説をこんなにすらすら書ける日が来るなんて、夢にも思いはしなかった。まだなんだか夢の中にいるような気さえしていた。
シンゴにとって、仕事が軌道に乗り始めるということは。自分にとってもアスカにとっても良いことだというのはよくわかっている。アスカの嬉しそうな顔を見ていると本当に良かった、とも思う。
けれど、シンゴはそういった類の喜びに浸れず、ただただ溜め息をつき続けていた。
アスカの浮気のことが気になって仕方がないのだ。一時期は仕事さえ手につかなくなりかけた。しかし、仕事には締切もあるし、何よりアスカの浮気のことばかり考えていたら、気が狂いそうになってしまう。
嫌な考えを払拭しようと、シンゴは仕事に打ち込むようになっていった。
「ねぇ、今、いい?」
アスカがシンゴの仕事場である書斎にやって来るのは珍しかった。シンゴは面食らいつつも、「ああ、いいよ」と彼女を迎え入れる。
「今までしてたバーでの仕事辞めたから」
「えっ……」
想像もしていなかったアスカの言葉に、シンゴはそれ以上の言葉が出てこなかった。
「もうバーでやらなきゃいけないことは終わったの。依頼主から別れさせてほしいって頼まれてた浮気相手もだいたいの検討がついたし、潮時かなって」
「ああ、そうなんだ」
潮時という言葉に引っかかったが、シンゴは顔には出さなかった。
「だから、これから、夕飯は私が作るわね」
「えっ、でも……」
「シンゴも仕事忙しいでしょ。他の家事は任せっぱなしだし、夕飯の用意くらい私にやらせて」
「ありがとう」
「じゃあ、お仕事頑張ってね」
そう言って、アスカは出て行ってしまった。一人残されたシンゴは椅子の背もたれに大きく寄りかかった。シンゴの口から溜め息が零れたのは、それから数秒後のことだった。
シンゴはアスカの言葉を一人反芻する。どうしても、「潮時かなって」という一言が引っかかって仕方なかった。決して、良い意味ではないようにシンゴには思えた。
彼は椅子の背もたれに寄りかかったまま、パソコンの画面を遠くから見据える。次に入力される文字を待ちながら、点滅するラインをじっと見つめた。
アスカの今までの仕事振りを見ていると、アスカがバーを辞めた理由が、バーでの情報収集が終了したからというのは嘘ではないだろう。けれど、あれだけ、ターゲットに入れあげているアスカが何事もなく、バーを辞めるだろうか。シンゴが引っかかっているのはその点だった。
きっとターゲットと何かしらの接点をバー以外で持てたから、バーを辞めたに違いない。シンゴはそう踏んでいた。
やはり、浮気を継続して、自分とは別れるつもりなのだろうか。そう考えるだけで、シンゴは遣る瀬無い気持ちでいっぱいになる。そんなことは今すぐ思い止まってほしい。けれど、そんなことを言える立場ではないことはシンゴ自身が一番よくわかっていた。
きちんと作家として、仕事をし、収入を得た上で考え直してほしいと言わなければ、なんの説得力もないだろう。だが、今ここで思い止まらせなければ、アスカはどんどんどつぼにハマっていくかもしれない。
それにアスカが異様に優しいことも不安材料の一つだった。アスカが自分から夕飯を作ると言い出したのだ。一緒に暮らしてきて今まで一度だったそんなことはなかった。勿論、シンゴが作家としての仕事をしていなかったから、というのは大いに理由としてはあるだろう。しかし、たかが少し仕事を始めたくらいで、手のひらを返したように態度が変わるものだろうか。
アスカが急に優しくなったのは、きっとやましいことがあるからだ。シンゴはそう思った。思ったけれど、まさかそんなことを口にするわけにもいかない。
アスカが夕飯を作ってくれることは、アスカの浮気さえ疑っていなければ、嬉しいことなのだ。
一体、どうすればいいんだ……。
シンゴは何度も同じ言葉を心の中で繰り返した。繰り返しても繰り返しても一向に答えは見当たらない。現実は小説よりもよっぽど残酷だ、と感じるのはこんな時だった。
翌日、アスカは事務所でいつものように煙草をふかしながら、机の上に足を上げ、書類と睨めっこをしていた。
「さーて、どうするかな……」
書類に目を通したのは一体何度目だろう、と思いながら、アスカはまた最初から書類に目を通し始めた。
アスカの持っている書類はマキコが言っていたヒサシの浮気相手の個人情報だった。
アスカの勘は見事に的中していたのだと、写真を見てアスカが安堵の溜め息をついたのは、今日の朝だった。
どうしても別の案件の確認で手が離せなかったアスカは、所員に浮気相手の勤めているカフェのスタッフを調査するように指示を出していた。そして、アスカの睨んだ通り、そのカフェのスタッフの中に、見事ヒサシが連れて来ていたあの女がいたのだ。
「こういうのがタイプだったとはねぇ……」
煙草をふかしながら、アスカは一人ごちる。
女の名前はレナと言い、現役大学生だった。最近、二十歳になったばかりなのか、と誕生日を見て、アスカは驚く。年齢の割に落ち着いているな、と思った。
アスカは目の前の書類に何度も目を通す。次に自分がしなければならないことは、ただ一つ。レナとの接触だ。接触して、ヒサシとの不倫をやめさせる方向へともっていかなければならない。ヒサシの行動パターンや性格はある程度把握している。その情報を元にレナにどのようなアプローチをかけるかを随時判断するのだ。ここが一番の山場だと言える。
レナが不倫をしていることをどう思っているのかによっても、別れさせる方法は異なってくる。大概の場合、浮気相手は不倫を悪いことだとあまり思っていないことが多い。不倫をしている女の多くは、奥さんと彼氏が別れることを願っているのだ。奪えるものならすぐにでも奪いたい、そうと思っているのが大半だ。
けれど、時に罪悪感に苛まれながら、不倫をしている女もいる。ごく少数と言っていいが、そういった女の場合、前者よりもいくらか簡単に別れさせることが出来る。
「どうするかなぁ……」
アスカは煙草の吸殻を灰皿に押しつけて、溜め息をつく。彼女はしばらく思案した後、紅茶を淹れる為に席を立った。
キッチンで紅茶を淹れると、はちみつをたっぷりと入れる。身体が甘い物を欲しているんだな、と思い、いかに疲れが溜まっているかを痛感した。きっと慣れない料理なんかしているからだ。けれど、シンゴが仕事を頑張ってる今、家事をしないわけにはいかない。シンゴのやる気をそぐようなことだけはしたくなかった。
紅茶を飲みながら、これからの仕事の進め方を考える。まずはレナとどうやって接触するかだ。一番楽なのは、カフェにアルバイトとして入り、バイト仲間になってしまう方法だ。しかし、すでにバーで対面を果たしている以上、その方法は取れない。
他の方法は残り二つ。一つはカフェの常連となること。もう一つは別の場所でレナと接触することだ。
アスカはどちらの方法を取るか悩んだ。
レナの働いているカフェはオフィスビルの一階に入っている。そのカフェを利用する常連になるには、そのオフィスビルで働いていなければ怪しいし、バーで働いていた人間がそんな場所に突如現れればおかしいと思われるかもしれない。
レナとは一度しか会っていないから、レナがアスカの顔を覚えていない可能性もゼロではなかった。けれど、物事を自分の都合の良いように考えるのは一番危険だ。
カフェ以外の場所でレナと接触する方がいくらか自然だし、偶然の再会をきっかけに話が盛り上がり、仲良くなりやすいとも思った。
けれど、今からレナとの接触場所を探すのは、時間がかかりすぎる。アスカは考えた結果、カフェで常連となることを決めた。行くとすれば、朝の時間帯にテイクアウトせず、カフェで飲む必要がある。テイクアウトの多い時間帯にそうすることで、印象に残るはずだ。
これから、毎朝、カフェに通う為に早起きをしなければならないのかと思うと、憂鬱だったが、仕事の為だ。仕方がない。
それにアスカにはとっておきの方法があった。この方法なら、きっと上手くいく、そうアスカは確信していた。
まずは家に帰って、シンゴに相談しよう。こういう時、作家の夫は誰より頼りになる。
アスカは書類のコピーを一部取ると、灰皿と紅茶の後片付けをてきぱきと済ませて、事務所を後にした。
その日の晩、アスカは腕によりをかけて夕飯を作った。満足そうに微笑む彼女の前には、食事を口にするシンゴの姿がある。
「うん、おいしいよ」
「良かった」
シンゴの言葉にアスカは更に笑顔の皺を深くした。
「仕事は順調?」
「ああ、ちゃんと書けてる。アスカの方はどう?」
シンゴの言葉に待ってましたとばかりに、アスカは書類を差し出した。
「これは?」
「この間から関わってる案件の不倫相手の書類」
シンゴはアスカから書類を受け取ると、まじまじと眺めた。そこにはヒサシの不倫相手であるレナのプロフィールが事細かに書かれていた。
「この人がどうかしたの?」
「この女の子と接触しようと思ってる」
「へぇ……。今回は女の子の方に接触して、別れを促すの?」
「ええ。ターゲットの方は手ごわそうだから。でも、この女の子に接触するのもちょっと難しくて」
「どうして? カフェで働いてるなら、ここの店員になれば簡単じゃない?」
「それがそうもいかないのよ」
シンゴはアスカの言葉に怪訝な顔をした。
続き>>01-161~01-170「加速」まとめ読みへ
「実は……」
「実は……?」
シンゴの神妙な面持ちにユウキもつられながら、耳を傾ける。
「浮気されたんだ」
「浮気!? シンゴさんが!?」
「しーっ! 声が大きいよ」
周りに誰か他の人間がいるわけではなかったが、シンゴは慌てて、ユウキを制する。
「すみません……。意外だったもので……」
「そんなわけだから、ちょっとね」
「そりゃあ、落ち込みますよ……。でも、どうしてわかったんですか?」
遠慮なく、ユウキはシンゴに質問する。
「尾行してたんだ」
「尾行!?」
「だから、声が大きいって!」
「どうして、そんなことしたんですか?」
「どうしてって、次の小説の題材が妻の仕事と同じだったからだよ」
「それで尾行して、浮気現場を見てしまった、と……」
「そういうこと」
ユウキは数回うんうんと頷くと、シンゴの方を見た。思わず、シンゴは身を引く。
「尾行は今日もするんですか?」
「いや、わからない。妻の仕事の状況次第だからさ」
「そうですか……。あの、一つお願いしたいことがあるんですけど」
ユウキは真剣な顔をして、シンゴを見据えた。
「なんだい?」
シンゴはユウキのただならぬ雰囲気に押されながら、問いかける。ユウキの口から飛び出た言葉はシンゴが予想もしていなかった言葉だった。
「今度、尾行する時は俺も連れていって下さい!」
「えっ」
突然のユウキの申し出にシンゴは面食らった。ユウキの言葉の真意がわからない。
「ダメですか?」
「ダメってわけじゃないけど……。尾行を続けるかどうか迷ってるんだ」
「どうしてですか?」
「何度も妻の浮気現場を見ても、正直へこむだけだからね」
「まぁ、確かに……」
「そういうわけだから、期待しないでいてもらえるとありがたいかな」
「ってことは、尾行する時は声をかけてもらえるってことですか!?」
「あぁ、結構、ハードだけど、それでいいなら」
「ありがとうございます!」
ユウキは満面の笑みで答えた。どうして、そこまでシンゴの尾行に同行したいのかわからなかったが、シンゴはその理由を聞こうともしなかったし、知りたいとも思わなかった。それよりも、一人であの妙なプレッシャーに耐えなくていいんだ、と思うことがシンゴをほっとさせていた。
「おかえり」
シンゴが家に帰ったのは、夕方になってからだった。アスカが笑顔で出迎えてくれたことに驚きを隠せなかった。妻の笑顔を見たのは、いつ振りだろうとさえ思った。
「ただいま」
上手く微笑めないまま、シンゴはアスカに言うと、コートを脱ぎ、手洗いとうがいの為に洗面所へと向かった。うがいをしながら、動揺している気持ちを落ち着かせようとする。けれど、浮気をしている妻を相手に平静に装える程、シンゴは大人でもなかったし、冷静でもなかった。
深呼吸を何度かすると、リビングへと向かう。リビングに入ると、シチューのいい匂いが鼻先をくすぐった。
キッチンに目をやると、珍しく、アスカが料理をしていた。思わず、シンゴは自分の目を疑う。
「私が料理なんてしてるから、びっくりした?」
アスカはシンゴの視線に気が付き、振り向きざまに言った。
「どうしたの……?」
「どうしたのって、あなたが小説の仕事を再開した以上、私も家事をやらなきゃいけないと思ったのよ。幸い、今日は午前中に仕事を片付けてこられたから、夕飯の支度も出来るし」
「そうだったんだ……」
「もうすぐ出来るから、テレビでも観て待ってて」
「うん、ありがとう」
シンゴはもやもやした気持ちを抱えながら、アスカに言われるまま、ソファに腰を下ろした。
「出来たわよ」
アスカに言われて、シンゴは食卓テーブルへとやって来た。テーブルの上にはシチューやサラダなどがバランス良く並べられている。
「久々に作ったから、美味しいかはわからないけど」
アスカは言いながら、席に着いた。
「君の手料理を食べられるなんて、嬉しいな」
シンゴは無理に微笑んだ。内心、アスカは浮気の後ろめたさを払拭する為に料理をしたのではないか、と思っていたけれど、言えるはずもなかった。そんなことを言ったら、尾行をしていたことがバレてしまう。そんなことをする小さな男だと思われるのは嫌だった。
「いただきます」
シンゴは笑顔でそう言うと、食事に手をつけた。
「どう? 美味しい?」
アスカに問われ、シンゴは「すごく美味しいよ」と再び作り笑いをアスカに向けた。
「良かった。シンゴは料理が上手だから、がっかりされたらどうしようって思ってたのよ」
アスカは嬉しそうに言う。ふとシンゴは新婚の頃を思い出した。アスカは結婚した当初、いつだって、こんな風に笑っていたではないか。アスカが笑わなくなってしまったのは、、自分に原因があったのではないか、と思わずにはいられなかった。
「あのさ……」
「何?」
「昨日の夜のことなんだけど……」
「あぁ、やっぱり、怒ってる?」
アスカの言葉に胃の辺りが何かにきゅっと掴まれるような感覚に襲われる。シンゴは浮気の告白を覚悟した。
「仕事が忙しくて、バーでの仕事を終えた後、そのまま事務所で仕事をしてたのよ。どうしても、今日の午前中までに目を通さないといけない書類があって」
「そうだったんだ……」
「ごめんなさい。電話を入れるべきだったわよね」
「あぁ、心配してたんだ」
シンゴは喉元まで出かかった「本当は浮気してたんだろう?」という言葉をぐっと飲み込んだ。アスカが嘘をつき通そうとしているということは、自分との結婚生活を壊したくないということだ、と考えたのだ。結婚生活を壊したくないと思っているということは、浮気は単なる火遊びかもしれないし、間が差しただけかもしれない。少なくとも、浮気相手より自分が優位に立っているのであれば、夫婦関係の修復は可能だと思った。それならば、今は何も言わないのが得策だ。
しかし、それはそれで苦痛が伴うものだということをシンゴは痛感していた。
アスカからの告白は数日が経った今日もなかった。けれど、シンゴは何も言わなかった。いつも通り小説を書き、家事をした。以前より、アスカは家事をしてくれるようになり、随分と楽になったけれど、どこか手放しで喜ぶことが出来ない。それはきっとシンゴの求めているものが、アスカが家事をする、ということではなく、浮気の告白だからだろう。
けれど、シンゴがアスカに浮気のことを問いただすことはなかった。浮気を責めないことが、真実を明らかにしないことが、得策だと思っていた。でも、本当は違う。シンゴはただ事実を突きつけられるのが怖かったのだ。
しかし、その事実から逃げられるわけもなく、シンゴはずっと追われ続けている。アスカに問いただすことが出来ないのなら、相手の男に思い止まるように直談判するのが近道ではないか、とふとシンゴはぼーっとする頭のまま、思いついた。
少々、卑怯な気もしたし、気が引けないと言えば嘘になる。けれど、何もしないで泣き寝入りするのはもっと嫌だった。
アスカは最近のシンゴの様子を見ていて、違和感を覚えていた。それが小説の仕事を始めたことによるストレスからなのであれば、仕方ないと思う。しかし、もしその原因が自分にあるのだとしたら、解決すべきことだとも思っていた。
兎に角、シンゴがどこかよそよそしいのだ。
アスカはバーでグラスを拭きながら、ぼんやりと夫婦について考える。
一緒に住んでいるというだけで、夫婦と呼べるならば、それは今のアスカとシンゴの状態から逸脱することはない。けれど、愛し合って、一緒に暮らしているのが夫婦とするならば、いささか今の二人の関係は違うような気がした。
そもそも、セックスをしなくなって、随分と経つ。シンゴは元々積極的な方ではなかったから、そんなに回数が多いわけではなかった。けれど、全くしなくなるには、まだ早い。
求められなければ、なんだか自分が女であることを忘れてしまいそうだったし、女としてシンゴに認識されていないような気さえした。
そう思ってしまう状況は嫌だけれど、だからと言って、自ら打破しようとしているわけでもなかった。どこか受け身な自分にアスカは溜め息をつく。
心のどこかで、シンゴがどうにかしてくれることを待っているのだ。そのくせ、シンゴがどうにかしてくれることなど、ありはしないと言うこともアスカはよくわかっている。
どうして、結婚してしまったのだろう。
行きつく結論はいつもそこになる。
でも、仕方がない。選んでしまったのは自分なのだ。今更、後悔したって遅い。責任は他の誰でもない、自分にある。
ヒサシを待つこの時間にいつもアスカは自分の恋の相手を間違えたような気分になった。
ふと顔を上げると、ドアが開き、入って来たのはヒサシだった。
思わず、アスカの顔がほころぶ。けれど、続いて入って来た女を見て、アスカの笑みは消えた。
茶色のボブヘアの良く似合う可愛い女だった。年の頃は二十代前半といったところだ。アスカとは数歳しか離れていないというのに、その若さは目を細めたくなるほど、眩しかった。
「いらっしゃいませ」
いつものようにアスカは声をかける。ヒサシは躊躇うことなく、カウンターのいつもの席に座った。続いて、女も腰を下ろす。
「バーボンと、君は?」
「ジントニックで」
アスカの顔を見ることなく、メニューに視線を落としたまま、女は言った。
ヒサシの顔を盗み見る。その顔はいつものヒサシのそれとは違った。
あの女がヒサシの本命――愛人だ。
別れさせ屋の勘がアスカにそう言っていた。
ヒサシが女を連れてくることはいつものことなのに、今日は心がざわざわした。あれが依頼主であるマキコが言っていた女に十中八九間違いないと思った。けれど、事実かどうかはわからない。
どうにかして、女の情報を聞き出さなければ、とアスカは思った。顔を覚えることはアスカにとって、簡単だった。名前さえわかれば、どうにでもなる。その後は素性を押さえて、接触するだけだ。どこかで偶然を装い出会い、浮気相手の女とも親しくなれれば、より一層、別れさせやすくなる。一番いいのは、女に別の男を差し向けることだったが、他の所員は別件で手一杯だった。
ここは自分がやるしかないか、とアスカが納得した時、タイミング良く、マスターが出来上がったドリンクをアスカに手渡した。
「お待たせ致しました」
いつものようにアスカは笑顔を向ける。
「ありがとうございます」
媚びるわけでもなく、自然に女はアスカからドリンクを受け取った。
今までヒサシが連れて来たどの女よりも愛想がいいな、とアスカは思った。お高く留まっているわけでも、自分の美しさに胡坐をかいているわけでもない。そういう素直さにヒサシが惹かれたことは一目瞭然だった。
アスカは自分の心が乱れてしまわないように、仕事に集中する。しかし、やはり、ヒサシと女のやりとりが気になった。それは、仕事ではなく、明らかにアスカの私情から来るものだった。
アスカがちらちらと気にしているのがわかったのだろう。ヒサシがアスカの方に何の前触れもなく、視線を向けた。互いの視線がぶつかり、アスカは気まずさのあまり目を伏せた。これではまるでヒサシに気があります、と言っているようなものだとアスカは罰が悪くなる。
やがて、ヒサシは女を連れて、店を出て行った。アスカはほっと胸を撫で下ろす。あのまま、二人を視界の端に捉え続けることはアスカには耐え難かったのだ。
アスカはテーブルを片付けようとして、あることに気が付いた。徐にヒサシの前にあったコースターに手を伸ばす。
きっと女がお手洗いに立った時に書いたのだろう。コースターには電話番号とヒサシの名前が書いてあった。電話をしてくれ、というメッセージであることは一目瞭然だった。
続き>>01-151~01-160「加速」まとめ読みへ
その日の晩、アスカは腕によりをかけて夕飯を作った。満足そうに微笑む彼女の前には、食事を口にするシンゴの姿がある。
「うん、おいしいよ」
「良かった」
シンゴの言葉にアスカは更に笑顔の皺を深くした。
「仕事は順調?」
「ああ、ちゃんと書けてる。アスカの方はどう?」
シンゴの言葉に待ってましたとばかりに、アスカは書類を差し出した。
「これは?」
「この間から関わってる案件の不倫相手の書類」
シンゴはアスカから書類を受け取ると、まじまじと眺めた。そこにはヒサシの不倫相手であるレナのプロフィールが事細かに書かれていた。
「この人がどうかしたの?」
「この女の子と接触しようと思ってる」
「へぇ……。今回は女の子の方に接触して、別れを促すの?」
「ええ。ターゲットの方は手ごわそうだから。でも、この女の子に接触するのもちょっと難しくて」
「どうして? カフェで働いてるなら、ここの店員になれば簡単じゃない?」
「それがそうもいかないのよ」
シンゴはアスカの言葉に怪訝な顔をした。