小説「サークル○サークル」01-161~01-170「加速」まとめ読み

アスカはシンゴと話す為に身体を少し前に乗り出す。
「この間までバーで働いていたでしょう? あの時にターゲットがこの女の子を連れて来てたのよ」
「アスカとこのレナって子は、面識があるってこと?」
「向こうが私を覚えていない可能性もあるから、そこはなんとも言えないんだけど、接触はしてる。もし私のことを覚えてたとしたら、いきなりカフェの店員になって現れたら、怪しまれると思う」
「そうだね……。チェーン店なら、飲食店の派遣はあるだろうけど、アスカの働いてたバーは個人経営だろ?」
「あれ……。私、シンゴにどんなバーで働いてるか言ってたっけ?」
「い、いや……そんな気がしただけだよ」
しどろもどろになるシンゴにアスカは小首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。きっと、書いている小説のこととでも、混乱しているのだろう、とアスカは流すと話を元に戻す。
「それでね、このレナって子に接触するにあたり、私はこのカフェの常連になろうと思うの」
「このカフェの?」
「そう。ただ、1つ問題があるのよ」
「どんな?」
「ここのカフェ、ターゲットの働くオフィスビルの1階に入ってるの。勿論、このビルに勤めてる人間以外も使ってるわ。だから、私が使うのはおかしなことじゃない。だけど、いきなり常連になるにはそれ相応の理由が必要なのよ」
「レナと接触した時の説明用にってこと?
「その通り。さすが、作家だわ」
アスカの一言にシンゴは照れ笑った。

「それで僕に相談したいことっていうのは何?」
「レナに接触する時の私の設定を作ってほしいの」
「設定?」
「ええ。要するに、私は登場人物Aを演じるってこと。私としてじゃなく、登場人物Aを演じて、レナと接触して、仲良くなるつもり」
「今までもアスカとしてではなく、別人としていろんなターゲットに接触してきただろう?」
「それはそうなんだけど、今回はかなり作り込まないと難しそうなのよ。環境も特殊だし。素性を曖昧に出来るような環境じゃないから。だいたい、OL経験なんてないし」
「なるほどね……。よし、わかった。僕が作ろう」
「本当に!?」
「ああ。そんなに喜ぶなんて、意外だな。僕が断るわけないって、思ってただろう?」
「ううん。シンゴ、最近、仕事忙しそうだから、作ってもらうの無理かなって思ってたの」
「アスカの頼みを断るわけないじゃないか」
そう言って、シンゴは微笑んだ。そして、アスカはほっと胸を撫で下ろす。
これで第一関門は突破出来ると思った。シンゴが設定を作ってくれたら、あとはその設定を完璧に覚え、そういう人間を演じればいい。高校時代演劇部に所属していたこともあるアスカは、演技にはそれなりの自信があった。

食事を終え、シンゴは書斎に戻ると、アスカから預かった書類に再度目を通した。
「大学3年生、20歳、母親と2人暮らし、か……」
シンゴはレナのプロフィールを見て、溜め息をついた。父親がいなければ、年上の男性を求めるのは仕方がないことだ。けれど、相手が既婚者なら、仕方ないでは済まされない。
「カフェでバイトしてて、常連だったターゲットと次第に惹かれあって、そのまま関係を持ってしまった……ってところかな」
シンゴは思いついたことを口にする。彼の仕事の最中の癖だった。声に出した方が頭の中が整理出来て、考えがまとまりやすいという理由で、この仕事を始めてからずっとこのスタイルを取っていた。
シンゴはパソコンに向かうと、設定を書き始める。基本的なアスカの情報はいじらず、アスカの基本情報に新たな項目を肉付けしていくような形で設定を作り上げていく方法を取ることにした。
その作業は普段の小説を書く手法とはいささか違ったが、これはこれで面白いとシンゴは感じていた。

翌朝、シンゴがリビングに行くと珍しくアスカがいた。
「おはよう」
アスカがソファに座ったまま、笑顔を向ける。
「おはよう」
寝ぼけたまま、シンゴはアスカに言うと、洗面所へと向かった。顔を洗い、ひげをそると、再び寝室に戻り、洋服へと着替える。
そして、もう一度、ソファに座るアスカに「おはよう」と言った。
「珍しいね、君がこんな時間に家にいるなんて」
「今日は朝から事務所に行っても、する仕事がないの。だから、家にいるのよ。コーヒーでも飲む?」
「ああ、もらおうかな」
こんなやりとりをしたのはいつ振りだろう、とシンゴは記憶を遡る。しかし、思い出せなかった。
家事はいつもシンゴがやっていたし、アスカからこういった類の優しさを向けられることは、ここ数年なかった。それだけ、アスカと関係性にヒビが入っていたということだ。
けれど、皮肉なことにアスカが浮気をしてから、シンゴとアスカの仲は急激に温かくなったのだ。そして、シンゴも今になって、夫婦の関係性について考えるようになっていた。

キッチンにいるアスカを見るだけで、シンゴはなんだか幸せな気分になった。自分の奥さんが自分の為にコーヒーを淹れてくれる。たったそれだけのことなのに、こんなに嬉しいと思うなんて、こんなに感謝をするなんて、思ってもみなかった。
きっと結婚していれば、そんなの当たり前だよ、と思われてしまうようなことでも、シンゴにとっては新鮮だった。どれだけ、自分たち夫婦がイレギュラーな環境下の中で、それでも愛想をお互い尽かさずにやって来ていたかを思い知った。
シンゴは今になって思う。自分たちは夫婦ではなかった。ただの同居人に過ぎなかったのだ、と。だからこそ、夫婦らしいちょっとした会話や行動にでさえも、思わず笑みがこぼれた。
「お待たせ」
アスカはキッチンから戻ってくると、コーヒーの入ったマグカップをシンゴに渡した。
「ありがとう」
シンゴはそれを笑顔で受け取る。
こんな毎日が続けばいいのに――そう、シンゴは思ったけれど、口には出せなかった。

「昨日のプロフィールのことだけど」
シンゴはコーヒーを一口飲むと、アスカから頼まれていた仕事のことを切り出した。
「いつ頃、出来上がりそう?」
「もうほとんど出来ているから、明日には渡せると思うよ」
「ホントに?」
アスカは嬉しそうに言った。
「シンゴって仕事、早いのね」
「そんなことないよ。このくらい、普通だって」
アスカに褒められることに、シンゴは弱かった。アスカが自分のことを褒め、尚且つ喜んでくれているのだ。これほどまでに嬉しいことはないとさえ思った。
けれど、アスカは浮気をしている。そう思うと、複雑な気持ちになった。
アスカが優しいのだって、浮気の罪滅ぼしだと考えれば、手放しで喜ぶことも出来ない。けれど、「優しい」という事実だけを見れば、十分、幸せなことだとも思う。どこに焦点を当てるかで、幸せなのか不幸なのかが変わるのだ。
シンゴは出来るだけ、アスカの浮気について考えないようにした。せめて、一緒にいる時くらい、幸せを噛み締めたいと思ったのだ。

シンゴは書斎にこもり、プロフィールに色々な情報をつけ足していた。わざとらしくならないように、だけど、しっかりとこだわりを持って、作り上げていく。これはシンゴが自分の作品の登場人物を作る時と同じだった。
シンゴにとって、一度作った登場人物は小説の中のキャラクターというよりは、実在している人物に近い存在だった。それは彼が登場人物を作る時に、その人物の過去を作り込むからだろう。こういうことがあったから、こういう発言をするような性格になっていった。こんな経験をしたから、こういう対応を自然と出来るなど、彼の作り出す登場人物は、生きている人間同様の経験と理由、過去が用意されていた。だから、その登場人物たちが何かを言われた時、どのように返すかと問われれば、「多分、彼はこんな風に言うのだと思います」と伝聞形式でシンゴは答えた。彼にとって、登場人物は一度生まれてしまえば、自分の作り出したキャラクターではなく、生きている第三者となんら変わりない存在へとなる。
けれど、その感覚を理解してくれ、というのはなかなか難しい。だから、シンゴはアスカにそんな話をしたことはなかった。でも、今はそんな話をアスカにするのも悪くないかな、と思っている。もしかしたら、今回のアスカの元に舞い込んできた仕事は自分たちに良い何かをもたらすのではないか、とさえ思っていた。――アスカの浮気を除いてだが。

昼ご飯の時間になり、リビングへと向かうと、美味しそうな匂いが立ち込めていた。ふとキッチンに目を遣ると、エプロン姿のアスカが何かを作っているようだった。
「何か作ってるの?」
シンゴの声に顔を上げると、アスカは微笑んだ。
「ちりめんじゃこのペペロンチーノよ。もうすぐ出来るわ」
アスカの言葉に少し驚きつつも、シンゴはソファに腰を下ろし、テレビをつけた。
テレビではお昼の生放送番組が最新のトレンド情報を流している。流行に疎いシンゴは初めて聞く言葉ばかりで、さっぱり意味がわからなかった。仕事柄、こういった流行にも敏感でなければいけないのにな、と思ったが、興味のあることではなかったので、いまいち、集中して聞く気にはなれずにぼーっと画面を眺めていた。シンゴはしばらくザッピングして、自分の好みの番組がないことがわかると、テレビの電源を切った。
「出来たわよ」
アスカはテーブルにちりめんじゃこのペペロンチーノを運ぶ。シンゴはソファから立ち上がると、席に着いた。

食事が半分くらい済んだ頃、シンゴは思い出したかのように口を開いた。
「頼まれてたプロフィール、出来たよ」
「ホントに?」
アスカは驚く。パスタを巻く手を止め、空いている左手を口元に持っていく。そのしぐさの端々に嬉しさが見え隠れしていた。
「こんなに早く出来るなんて、思っても見なかったわ」
「あのくらいなら、そんなに時間はかからないよ。食事が終わったら、確認して。一応、アスカの基本的な部分は変更せずに情報を付け足した形を取ったから、多分、無理なく、使えると思う」
「ありがとう。あとは私がしっかり設定を覚えて、レナに接触して、ターゲットと別れさせればOKってことね」
アスカはフォークにパスタを巻き直しながら言う。
「そうだね。でも、大丈夫なの?」
「何が?」
アスカは不思議そうにシンゴの顔を見た。
「オフィスビルのカフェってことは、ターゲットとアスカが鉢合わせることもあるんじゃない?」
「それは大丈夫よ。時間をずらして行くから。私は朝の混雑時間と昼の混雑時間の間に行くつもり。テイクアウトじゃ印象に残らないから、お店で一杯飲んで出てこうかなって」
「でも、それっておかしくない?」
「なんで?」
「会社の就業時刻って、どこも大抵同じだし、昼休憩だって大した差はないはずだよ。なのに、どうして、アスカだけそんな時間に来られるんだろうって疑問が出て来ると思う」
「言われてみれば……」
アスカは眉間に皺を寄せて、頬杖をついた。

「でも、どうすればいいんだろう……?」
「それ相応の理由があればいいと思う。オフィスビルの社員だと怪しいから、自営業ってことにすればいいんじゃないかな」
「要するに、今の私のまんまってこと?」
「そういうこと。だけど、そのカフェに通う理由が必要になってくるんだよな……」
シンゴは腕を組み、思考を巡らせる。オフィスビルのOL設定が使えなくなった以上、もっとしっくりくる設定を考える必要がある。いかに矛盾のない設定にするかが、ポイントだった。
「そうだな……。近くに何か習い事出来るような場所はない?」
「ちょっと待って。今、地図見るから」
アスカはスマートフォンを取り出すと、地図のアプリをタッチした。すぐに住所を入力し、周りに何があるかを調べ始める。
「オフィス街だから、周りは会社ばっかり……。あとは飲み屋が並んでて……。あっ……」
「何かあった?」
「ジムがあった」
「それだ!」
「えっ……?」
きょとんとしているアスカにシンゴは自信満々に言った。
「ジムに通えばいいんだよ」

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