小説「サークル○サークル」01-331~01-340「加速」まとめ読み

「いつから気が付いてたの?」
アスカはモヒートに口をつけてから訊いた。
「結構前からかな」
「結構前……?」
「レナの様子が変わったんだ。誰かの影響を受けていることはすぐにわかった。最初は男かと思ったよ」
「でも、違った」
「ああ。まさか、君が絡んでいるとは思わなかったけど」
アスカはヒサシの言葉には答えずに再びモヒートに口をつけた。
「ここで俺と接触したのも計算のうちだろう?」
「ええ。隠しても無駄だから言うけど、その通りよ」
「俺にバレるってことは、作戦は失敗だな」
「そうね。でも、きっと彼女はあなたと別れるわ」
「どうして?」
「だって、あなたには他にも女がたくさんいる。彼女はそれを知らないわ」
「知ったら、別れる……か。俺としては、彼女を取られるのは痛いんだけどな……」
勝手な言い分だな、とアスカは思っていた。ヒサシは何か考えているのか、黙ったまま、グラスを見つめている。カランと氷の溶ける音がした。
「……取引をしないか?」
「取引?」
アスカはヒサシの言葉に怪訝な顔をした。
アスカは嫌な予感がした。ヒサシはきっと自分がイエスと言わざるを得ない条件をつきつけてくるだろう。そうして、自分の都合の良いように、全てを回していくのだろう。
このままではまずい、とアスカは思った。けれど、思うだけで、解決策はすぐには浮かばない。
マキコからの依頼のこともある。どうしたものかと頭を悩ませた。
「依頼者の男に伝えてほしいんだ。彼女と俺は別れたって」
アスカは口の中で小さく「えっ……」と言ったが、ヒサシには辛うじて聞こえなかったようだ。
アスカはヒサシが勘違いしているのだということに、ワンテンポ遅れて気が付いた。
ヒサシはレナのことを好きな男が不倫をやめさせようとしていると思っているのだ。きっと、レナからさっき中華レストランで会った、レナとヒサシを別れさせようとしている幼馴染の話を聞いたことがあったのだろう。だから、依頼者のことを「男」と言ったと考えれば、辻褄が合う。
アスカはほっと胸を撫で下ろし、モヒートを一口飲んだ。

何も言わないアスカをヒサシは見ている。視線を感じながら、アスカはカウンターの向こう側にあるグラスの置かれた棚をじっと見つめていた。
「君の答えは?」
ヒサシは落ち着いた調子で言った。余裕があるのが見て取れる。
アスカはヒサシの方を向くと、にっこりと微笑んだ。
「わかったわ。その代わり、私が別れさせ屋として依頼されているということをあなたが気が付いたことは黙っててくれる……ということね?」
「そういうことだ。やっぱり、君は頭の回転が速いね」
「でも、上手くいくかしら?」
「何が不安?」
「あなたたちが別れたということを相手にどうやって信じさせればいいのかな、と思ったのよ」
「それは難しいね。そうだなぁ……」そう言って、ヒサシは考え込む素振りを見せて、続けた。「彼女にも別れたと言わせて、一ヶ月くらいは会わないようにするよ」
「破局を偽装するってことね」
「ああ」ヒサシは頷く。
「それはいいかもしれないわ」
アスカは言って、にっこりと微笑んで見せた。

「それから、メールの連絡も絶った方がいいと思うけど、我慢出来る?」
「一ヶ月くらいならね。元々、メールはあんまり好きじゃないんだ」
「でも、マメそうよね」
「それは、女性の為さ」
この男は筋金入りの女たらしなのだとアスカは思った。相手の女を愛しているから、マメにメールをしたり、オシャレなバーに連れて行ったりするわけではないのだ。ヒサシがそれらをこともなげにこなすのは、自分が女を囲っておきたいからに他ならない。
「あなたの本音を聞いたら、がっかりする女性は多そうね」
「だろうね。でも、いつだって、本音と建前は用意されているものだろう?」
「そうかもしれないけど、恋愛してる時は相手の全てをそのまま信じたいものよ」
「へぇ、気味がそんなことを言うなんて意外だな。もっと現実主義かと思ってたよ」
「仕事とプライベートは別なの」
アスカの一言にヒサシは笑った。
「一体、何人の女の子と付き合ってるのよ」
アスカはずっと前から気になっていたことを訊いてみた。

「何人だと思う?」
「そうね……。五人くらいかしら?」
「惜しいな」
「もっといるの?」
「まさか。四人だよ。ご飯を食べるだけの関係なら、片手じゃ足りないけど」
「あの子も四人のうちの一人……か」
「ひどい男だと思った?」
ヒサシは悪戯っぽく微笑んで、アスカを見た。
「前から思ってるわ。あなたのことを探る為に、ここでアルバイトを始めてから、沢山の女の子と一緒にいるところを見てきたもの」
「妻だけじゃ足りないんだよ」
「足りない?」
「ああ、結婚は見合いで、家柄も悪くないし、性格も普通、外見は良かったし、結婚してもいいかな、と思ったんだ。ちょうど、少し前に五年付き合った彼女と別れたところでね。思考が鈍っていたんだと思う」
ヒサシはいつも以上に饒舌だった。きっと今まで誰にも言えなかった鬱憤が溜まっていたのだろう。
「結婚してみてわかったのは、料理も大して上手くないし、夜もいまいちつまらない。美人は三日で飽きるっていうけど、外見しか取り柄のない女ほどつまらないものはないよ」
ヒサシは一気にそこまで言うと、グラスを煽った。

「結婚を楽しいものだけだとでも思ったの?」
アスカはモヒートを飲みながら、ヒサシに視線を向ける。ヒサシはアスカの視線を受け止め、自嘲した。
「そんなこと思うわけないじゃないか。結婚が墓場だなんて、よく聞く話だろう?」
「じゃあ、どうして、そんな不平不満を?」
「結婚なんて、バカげた選択をしてしまった自分に対しての愚痴みたいなものだよ」
ヒサシは言いながら、溜め息をついた。
きっと少し前までのアスカなら、ヒサシと似たような溜め息をついていただろう。けれど、今のアスカがシンゴの存在を疎ましく思うことはなかった。それどころか、シンゴのことをそんな風に思ってしまっていたことに申し訳なさすら感じていた。
「結婚に対して、不平不満を言うのは、筋違いだってことくらいわかってるよ。全て、自分の選択の上に今の自分は成り立っているんだからね。だけど、愚痴を言わずにはいられない。まぁ……独身の君にはわからないだろうけど」
ヒサシは言いながら、左手の薬指に光る指輪に視線を落とした。

「あら、いつ私が独身だなんて言ったかしら?」
アスカの言葉にヒサシは大袈裟に驚いてみせる。
「冗談だろう?」
「冗談なんかじゃないわ。既婚者よ」
「まさかなぁ。俺の目も随分悪くなったらしい」
「どういう意味よ」
「俺が相手にするのは、独身の女だけって決めてるんだ。今まで、一度だって、既婚者の女を口説いたことなんてなかったんだよ」
「てことは、あのお誘いは本気だったってこと?」
「そうなるね」
ヒサシは悪びれることもなく、あっさりと認めた。
「でも、そんな仕事をしていて、既婚者とはね……。旦那は怒らない?」
「そんな小さな男と結婚なんてしないわよ」
アスカは特に考えることもなく、口をついて出た言葉に驚いていた。
そうだ、シンゴの大らかで、懐の深いところにアスカは惹かれたのだ。すっかり忘れてしまっていたことに思わず戸惑う
「それは良く出来た旦那だね」
「あなただったら、別れさせ屋なんて辞めさせる?」
「そうだなぁ……。辞めさせはしないだろうけど、快くは思わないだろうね」

「どうして?」
アスカは間髪入れずに問う。
「他の男とこうやって、接触するような仕事に奥さんに就いてほしいと思う男なんていないよ。ただ……辞めさせたりしたら、自分の器の小ささを露呈してしまうから、辞めさせたりしないんだよ。男なんて、ほとんど虚栄心で出来てる」
「その意見を否定はしないけど……。あなたの理屈から言ったら、私の夫は我慢してることになるわね」
「でも、全ての男がそういう考え方なわけじゃない。心の広い男だっているさ」
「そうね……」と言って、アスカはシンゴの本心はどうなのだろうと思った。今まで一度だって、きちんと自分の仕事について、シンゴに意見を求めたことはない。それだけ、シンゴの気持ちを考えてこなかったということのような気がした。
「そう言えば、お子さんはいないの?」
アスカはヒサシの妻であるマキコが妊娠中であることを知っていたものの、そ知らぬ顔で訊く。
「いないよ。ここ、一年くらい関係も持ってないから、出来ることもない」
ヒサシの言葉にアスカは自分の耳を疑った。
――子どもが出来ることもない……?
アスカは心の中がざわつくのを感じていた。

一体、マキコはなんでそんな嘘をついたんだろう……。
アスカはつい考え込みそうになるけれど、目の前にヒサシがいるので、心に留めるだけにした。
「お子さんがいれば、また少しは環境が変わってたんじゃないかしら?」
「そうだと信じたいね。でも、子どもがいなくて、少しほっとしているんだ」
「どうして?」
「だって、子どもがいたら、離婚を躊躇うだろう? 周りにも離婚を考えている奴らは何人もいるけど、結局、子どものことがネックになって出来ないでいるんだ。子どもは可愛いとか、養育費を払うのが難しいとかね」
「そもそも、離婚しないような相手を選べば良かったんじゃないの?」
アスカは仕事を忘れて、思ったことを口にする。言ってから、しまった、と思った。
「あははは。君の言う通りだよ。相手を選んだのは自分だからね。全ての責任は俺にある。でも、人間は間違うものだろう? 俺はうっかり間違えてしまったんだよ」
ヒサシは自嘲するように言った。

「本当に選ぶべきはレナさんだったと?」
「いや、違う」
「最低」
「最低なことは、俺をずっと見てた君なら、とっくに気が付いていると思ってたけど」
「そうね。気が付いてたわ。でも、言わずにはいられない程、最低だと思ったのよ」
「そう思われても仕方ないだろうね。さっきも言っただろう? 付き合っているのは四人いるって」
「ええ」
「君がコートを汚してしまったあの女性がしいて言えば、本命ってところかな」
「彼女は自分以外に三人いることは知っているの?」
「知るわけないだろう? 知ってたら、付き合うわけがない。男は浮気する生き物だからなんてカッコつけて、浮気は平気なんて言う女は沢山いるが、心の底から許している女なんていやしないんだよ」
「そして、不倫をしている女は自分が一番愛されている、と思い込む」
「その通り。奥さんよりも愛されている、と勘違いしている。でも、まぁ、俺の場合は、少なくとも妻よりは愛してるけどね」
ヒサシの言っていることは、きっと多くの男の本音なのだろう。けれど、本音だからと言って、正しいと認めることは出来ない。ただこんなにストレートに言われてしまっては、否定のしようがなかった。
彼は嘘をついているわけではないのだ。事実を述べているだけなのだ。

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