小説「サークル○サークル」01-346. 「加速」

アスカはホットミルクにはちみつを入れると、スプーンで何度かくるくるとかき混ぜた。使い終わったスプーンをシンクに置くと、シンゴの座っているソファへ溜め息をつきながら腰を下ろした。
「随分、疲れてるみたいだね」
シンゴはアスカの顔をちらりと見て言う。
二人の目の前にあるテレビは電源が切られており、真っ暗な画面が二人の姿をぼんやりと写していた。
アスカはそんな二人のぼんやりとした姿を見ながら、「うん」とだけ答える。喉の奥に言葉が引っかかって出てこない気がした。
「仕事、上手くいかなかったの?」
「……」
なんだか自分のことを見通されている気がして、アスカは黙ったまま、カップに口をつけた。
はちみつ入りのホットミルクの甘い味が口の中に広がってはゆっくりと消えていく。アスカは何も言わずにもう一口、ホットミルクを飲んだ。
無言の時間が続いていた。
シンゴもアスカが何も言わないことが答えだと思い、それ以上は何も言わなかった。
黙って隣にいるだけ良い時があるということをシンゴは知っていた。

小説「サークル○サークル」01-321~01-330「加速」まとめ読み

乾杯した後、冷たいグラスになみなみ注がれたビールを二人は一気に喉に流し込む。外の寒さを思うと、飲みたいなんて思わなかったのに、店内の暖かさに触れるとこんなにも美味しいものか、と思い、二口三口と続いた。
「今日は何を話したくて、電話をくれたの?」
アスカはビールを半分くらい飲み干すと訊いた。
「実は彼とこの間、話をしたんです」
「へぇ……。彼はなんて?」
「取り合ってくれませんでした」
「えっ……」
「君が突然そんなことを言い出すなんて、おかしい。誰かに何か言われたの? って言われて……」
さすがヒサシだ。レナの行動理由のほとんどはお見通しなのだろう。
「それであなたはなんて答えたの?」
「……何も言えませんでした。否定も肯定も出来なかったんです」
だから、ヒサシはきっと確信したのだろう。レナの後ろに誰かがいる、と。そして、それがアスカであるということにも気が付いた。アスカの名刺を何かのタイミングで見て、彼の中での点が全て線で繋がったに違いない。

「でも、あなたは別れたいのよね?」
アスカは棒棒鶏を皿に取りながら言う。
「はい。別れるつもりではいます。でも、彼が取り合ってくれないと、どうすることも出来なくて……」
「そうよね……」
アスカは次の作戦を考えていた。ここでレナに音信不通にさせてしまうのも一つの手ではあるけれど、ヒサシはそんことを許さないだろう。きっと何かしらのアクションを起こしてくるはずだ。そうなれば、アスカの対応は後手に回ってしまう。勝負に勝とうとするのならば、先手を打たなければならない。
今、ここで結論を急ぐのは得策じゃないわね……。
アスカはこの後に控えているヒサシとの待ち合わせを考えて、敢えて、レナにアドバイスするのをやめることにした。
「少し時間をおいた方がいいのかもしれないわね」
「えっ……」
「だって、彼だって、きっと戸惑っているはずよ。いくら不倫とは言え、好きな人から別れを告げられたら、どうしていいかわからなくなると思うの」
アスカはもっともらしく言った。内心では、そんなことを思っていないのに、だ。

「彼に限って、そんなことってあるんでしょうか……」
レナはやけに冷静だった。不倫をやめると決めてから、いろんなことが客観的に見られるようになってきたのだろう。きっとヒサシの良いところも悪いところも的確に判断出来るようになっているに違いない。
「どんな人だって、大切な人を失くす喪失感は経験したくないものよ」
「……」
アスカの言葉にレナは黙った。アスカの言っていることが一理あると思ったのか、自分の考えがまとまらないのかはわからない。ただ少なくとも、アスカの発言でレナがアスカを怪しむということはなさそうだった。勿論、レナがヒサシに会えば、今後の展開は変わってくる可能性がある。ヒサシからレナに自分の存在をバラされる可能性はあるのだ。
どうすれば……。
そこまで考えて、シンゴの顔が浮かんだ。シンゴを頼れば、何か良いアイデアをもらえるかもしれない。けれど、今のシンゴを頼るのは何だか申し訳ないような気がしていた。
シンゴだって、仕事で忙しい。そんな時に、毎回、自分の仕事の相談をされたら、きっとうんざりしてしまうだろう。
ここは自分で切り抜けるしかない、とアスカは思った。

「もう少し、様子を見て、彼に別れ話をしてみます。彼にも考える時間は必要ですよね」
レナはアスカの目をしっかりと見て言った。ここ数日でレナは見る見る逞しくなっている。別れを決めた女は強いということをアスカもわかっているつもりでいたけれど、なんだか嬉しくなった。
その後、アスカもレナも美味しい食事に舌鼓を打ち、他愛ない会話を楽しんだ。アスカは次が控えているので、飲み過ぎないように注意しながら、飲み進めていく。数時間が経った頃、アスカとレナは店を出ることにした。レナがトイレで席を立った時にアスカは会計を済ませておいた。それにしても、レナがなかなか帰ってこない。不安に思って、アスカは席を立ち、辺りを見回した。すると、幼馴染だと言っていた男に腕を掴まれ、何やら口論になっているようだった。
アスカはレナの元に駆け寄ろうかと考えたが、しばらく様子を見ることにした。
揉めている理由がわからなかったし、もし何かまずい状況になったら、店員がどうにかしてくれるだろう、と思ったからだった。

アスカはテーブルでレナが戻ってくるのを待ちながら、ケータイのメールボックスを見た。そこには珍しくシンゴからのメールがあった。
“明日打ち合わせで帰りが遅くなるのを伝え忘れたのでメールしました”と簡素な文面が表示されて、アスカはなんだかほっとした。
自分の仕事や置かれている状況は、明らかに今殺伐としているように思える。そんな時、夫の何気ない日常メールに、自分の居場所を見たような気がしたのだ。
アスカは“わかりました。お仕事頑張ってね”と返すと、ケータイをテーブルの上に置く。きっとシンゴから返信はないだろう。必要なこと以外、彼はメールをしないことをアスカは知っている。けれど、こんな時はくだらない内容でもいいから、シンゴからのメールが欲しかった。今、アスカは今回の依頼が成功するか、失敗するかの瀬戸際に立たされているのだ。誰かに弱音を吐いていいわけでもなかったし、吐けるような状況でもなかった。ただ気を紛らわす為だけのシンゴからのメールが欲しかった。

五分経っても、十分経っても、レナは席に戻ってこない。アスカは次第に心配になってきた。もう一度、席を立ち、レナがいた場所へと視線を向けた。すると、幼馴染の男がレナと真剣な顔をして話しているのが見えた。レナの表情はアスカの位置からは見えない。
アスカは痺れを切らして、レナとその幼馴染の男のところへと行った。
「どうかしたの?」
アスカはレナの背後から声かける。
「アスカさん……」
レナは振り返ると、困り顔でアスカを見た。
「彼女と今一緒に食事をしているんだけれど、何かご用かしら」
アスカは落ち着いた口調で言う。幼馴染の男は罰が悪そうに俯いた。
「もういい? 私、あなたと話すことは何もないの」
レナはそう言うと、男の前から立ち去ろうとする。けれど、男はそれを許さなかった。男はレナの腕を離さなかったのだ。そして、そのまま立ち上がる。
「行かせない」
「離してよ! 私はアスカさんと食事してるだけなの。だいたい、ユウキには私が誰と付き合おうと関係ないでしょ!?」
レナの言葉にユウキはレナの腕を掴む力を緩めた。その隙にレナはユウキの手をふりほどき、アスカに駆け寄る。
「アスカさん、行きましょう!」
レナの強い口調に圧倒されながら、アスカはレナとともに元いた席に戻った。

アスカとレナは中華レストランを出ると、しばらく無言で歩いた。
レナはきっとあの状況を説明する言葉を探しているのだろう。
アスカはそれをわかっていたので、何も言わなかった。レナが話したいタイミングで話し出せばいいと思っていたのだ。
駅まであと数メートルというところまで来て、レナが口を開いた。
「すみません……。みっともないところを見せてしまって……」
「別にいいのよ。みっともないなんて思ってないわ」
アスカの言葉に安心したのか、レナはぽつりぽつりと話し始める。
「彼は――ユウキは私の幼馴染なんです。ユウキは私が不倫していることを知ってて、ずっとやめるように言ってきてて……」
「そうだったんだ」
「はい……。何度放っておいてと言っても、顔を合わせる度に別れろって言われて、その度にケンカして……。さっきもお手洗いから帰ってくる時にまたその話をされて、口論になって……」
「そうだったの……。きっとレナちゃんのことが心配なのね」
「違います! ただのお節介なんです。ユウキは昔からああだから……」
窘めるように言うアスカにレナはむきになって答えた。

「あなたは気が付いてないのね」
「えっ……」
アスカの言葉にレナは一瞬眉間に皺を寄せた。
「彼はあなたのことが好きなのよ。だから、あなたに不倫をやめてもらいたい。ただそれだけだと思うわ」
「そんなことないですよ!」
レナはアスカの言葉を即座に否定した。
「どうして、そんなことが言い切れるの?」
「だって、私とユウキは幼馴染で……」
「それはあなたの主観でしょう? 彼は幼馴染であり、好きな人として、あなたを見てるんじゃない?」
「……」
心当たりがあるのか、レナは黙った。黙って、そのまま、ふと足を止めた。
「どうして、アスカさんはいろんなことを上手に考えられるんですか……?」
“上手に考えられる”という言い方にアスカは違和感を覚えたけれど、レナの言いたいことはなんとなくわかった。
今、彼女の頭の中は混乱しているのだ。
必死で整理しようとしているのに、上手くいかない。そんな彼女の心情が表されている言葉のような気がしていた。

「いろんな経験の上に思考は成り立つから、かな」
アスカは言いながら、回りくどい言い方をしてしまったな、と思っていた。けれど、レナはアスカの言葉に深く頷いている。
「私はまだ経験が足りないのかな……」
「そうね。今回のことも良い経験になったんじゃない?」
「はい……。でも、彼に納得してもらわないと別れられないから……」
「時間はかかるかもしれないけど、きっと大丈夫よ。それより、さっきの幼馴染の彼には別れること言ったの?」
「いえ……。関係ないことですから」
レナはアスカにきっぱりと言い放った。なんだか幼馴染の青年が可哀想になる。
「そろそろ、行きましょうか」
アスカは立ち上がる前にバッグに手を伸ばした。
「あの支払は……」
「もう済ませてあるわ」
アスカはそう言って、レナに微笑んだ。

アスカはレナと別れると急いで、ヒサシの待つバーへと向かった。
見慣れたバーのドアも今となっては懐かしい。
アスカはドアの前で大きく深呼吸をすると、ドアノブに手を伸ばした。
ドアを引き開けると、カランカランとドアベルが鳴った。

アスカは一歩店内に足を踏み入れる。
店内は相変わらず薄暗く、微かにBGMがかかっていた。アスカはカウンター席に視線を走らせる。
ドアベルの音に反応してか、振り向いた男が一人――ヒサシだった。
アスカは何も言わず、空いているヒサシの右隣に座った。
マスターが一瞬驚いたような顔をしたけれど、マスターのいる位置とは席が離れていたので、特に言葉を交わすこともなかった。
新しく入ったであろうアルバイトの女の子がアスカの前におしぼりを持ってくる。注文を聞かれたので、アスカは「モヒートを」と答えた。
しばらくすると、お通しのワカメスープが運ばれてくる。それから、モヒートが間を開けずに運ばれて来た。
「来ないかと思ったよ」
ヒサシはアスカの方を見ずに言った。
「先約があったのよ」
「レナと会ってた、とか」
「もう全部わかっているみたいね」
「まぁ、夜は長い。取り敢えず、乾杯」
そう言って、ヒサシはアスカの持つモヒートのグラスに自分のグラスを軽くあてた。

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