「どういうこと?」
「別れさせ屋っていうのは、その方法にもよるけれど、探偵とは違って、ターゲットに顔がバレることもあるだろう?」
「確かに……。でも、あの時はターゲットは男で、相手の女――今回の依頼者だけど、彼女には今回みたいに接触はしていないわ」
「君は接触していない、と思っているかもしれない。でも、本当は間接的に接触していたとしたら?」
「そんなこと……」
「ないとは言い切れないだろう? いつどこで監視されているかなんてわからないじゃないか」
「それって、私が探偵に監視されてたって言いたいの?」
「その通り」
シンゴは涼しい顔をして言う。そんなシンゴをアスカはつまらなさそうに見た。
まさか、私が監視されていたなんて――。
アスカはそう思いながらも可能性としては、ゼロではないな、と思っていた。
随分、昔のことになるから、アスカの記憶も曖昧だ。自分の仕事の詰めが甘かったとは思わない。けれど、探偵だって、プロだ。こちらが気付くようなヘマはしないだろう。
そこまで考えて、アスカは溜め息をついた。
どんなに過去の仕事の失敗を悔やんでも、今の自分になんのプラスももたらさない。
「じゃあ、レナさんがあなたの元から去るのは別に問題ないんじゃない?」
「それとこれとは話が別だ」
一体、どう別なんだろう、とアスカは思ったが、何も言わず、ヒサシの話の続きを聞くことにした。
「レナは若くて可愛い。そばに置いておきたいと思うのは自然な気持ちだと思う。彼女が俺よりも好きな人が出来たとか、俺にほとほと愛想が尽きたというのなら、引き留めはしないけど、別れさせ屋の君にそそのかされて、別れたいというのは、“はい、そうですか”とは言えないね」
「そそのかすだなんて、人聞きの悪い。私の仕事よ」
「失礼。でも、俺の気持ちはそういうことさ。彼女が自分で考え、決めたことならいつだって歓迎するよ」
「あのくらいの年頃は、周りに流されやすいのよ。でも、彼女の今回の判断は懸命だと思うわ」
「それは君からしたら、だろ?」
「ええ、女の私からしたらね」
「性別で来たか」
ヒサシは溜め息をつき、酒を煽ると、マスターにもう一杯同じものを注文した。注文したドリンクが運ばれてくるのを見計らって、アスカが口を開いた。
「そりゃそうでしょう。あなたが男は浮気をするものだというんだったら、浮気相手にされている女ほど、惨めなものはないわ。不倫だとしても、本命であるなら、また話は違うけれど、今回なんて、浮気相手の中でも一番じゃないなんて。あなたと付き合ってる時間は彼女にとって、無駄だと思うけど」
「人生に無駄なことなんてないと思うけどなぁ」
「それは一般論よ。女の二十代は人生の中で一番尊いのよ。そんなこともわからずに、あんな若い子と付き合ってるわけ?」
「若いいい時間を費やしたんだから、責任取れってヤツ?」
「そうよ。責任取れないなら、手を出すなってこと」
「どうして、そんなにもレナと別れさせたい? 仕事だからか?」
「仕事だからっていうのも、勿論あるわ。でも、あの子がいい子だからよ」
「レナが?」
「そう。あなたの奥さんに対してもちゃんと罪悪感を持って、あなたと付き合ってたわ。いずれ、別れなきゃいけないと思ってるとも。いい機会だと思わない? 後腐れなく別れられるわよ。女から言い出す別れなんだから」
「……考えておくよ」
ヒサシの返事を聞いて、アスカは残っていたモヒートを一気に流し込んで、コースターの上にとんっとグラスを置いた。
「それじゃあ、私はこれで」
そう言って、アスカは財布から千円を抜くと、テーブルの上に置く。
「もう一杯付き合ってはくれないんだね」
「付き合う理由はないわ。それから……」
「何?」
「依頼者があなたの女だと、考えたことはなくって?」
アスカの去り際の一言に、ヒサシの表情が一瞬だけ曇った。
アスカはヒサシに背を向けると、バーを後にした。
背後に懐かしいドアベルと、それに少し遅れてドアが閉まるがちゃりという音が聞こえると、アスカは溜め息をついた。
バーの前で立ち止まり、足元を見つめる。すぐにこの場を立ち去りたいはずなのに、しばらくは動けそうもなかった。
覚悟はしていた。
覚悟はしていたはずなのに、自分の置かれている状況を目の当たりにして、アスカは戸惑っていた。
ここからどうやって、持ち直せば良いのかがわからないのだ。
何より、ヒサシのあの言葉がアスカの中で引っかかっていた。
“いないよ。ここ、一年くらい関係も持ってないから、出来ることもない”――と。
夜遅く、アスカは家に帰って来た。終電はすでに終わっていたので、タクシーで最寄駅まで帰ってくると、そこからのんびりと家まで歩いた。タクシーで家まで帰る気にはなれなかった。
夜道は暗いし、風は冷たい。それでも、歩くのを選んだのにはわけがあった。
アスカ自身、まだ頭の中が整理しきれず、一人でゆっくり考えたかったのだ。
依頼者のマキコが自分に妊娠していると嘘をついていたこと、ヒサシにとって、レナは一番愛している女ではないこと。
マキコにしても、ヒサシにしても、アスカにとっては、どっちもどっちに見えて仕方なかった。
そもそも、結婚なんしてしなければ良かったような二人なのだ。そんな二人が結婚してしまったから、別れさせ屋に依頼をしなければならなくなってしまったのだと思う。
不倫をしている女性を擁護するつもりはなかったけれど、アスカにはレナが不憫に思えてならなかった。
ヒサシと接すれば接する程、大人の男性のずるさが見える。レナの純粋さにヒサシが漬け込んでいるように、アスカには見えていた。
アスカは家に着くと、静かにドアを開けた。
シンゴは寝ているのか、起きて仕事をしているのかわからなかったけれど、邪魔をしたくなかったのだ。
アスカは玄関からリビングへ続くドアを開け、ソファに荷物を置くと、洗面所へと向かう。手洗いとうがいをして、洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、溜め息をついた。
疲れ切った顔が鏡越しに自分を見つめている。
アスカはリビングに戻ると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。マグカップに注ぎ、電子レンジに入れると、加熱のボタンを押す。
橙色の明かりが灯り、加熱が始まったのをじっと見つめていた。
「帰ってたんだね。おかえり」
はっとして顔を上げると、視線の先には少し眠たそうなシンゴがいた。
「ただいま」
「今、帰って来たの?」
「ええ、そうよ」
「お疲れ様」
シンゴは微笑むと、ソファに腰を下ろした。
「シンゴも何か飲む?」
「僕はいいや。さっき、コーヒーを飲んだばかりなんだ」
シンゴの顔を見て、ほっとする自分にアスカはほんの少し笑みがこぼれた。
アスカはホットミルクにはちみつを入れると、スプーンで何度かくるくるとかき混ぜた。使い終わったスプーンをシンクに置くと、シンゴの座っているソファへ溜め息をつきながら腰を下ろした。
「随分、疲れてるみたいだね」
シンゴはアスカの顔をちらりと見て言う。
二人の目の前にあるテレビは電源が切られており、真っ暗な画面が二人の姿をぼんやりと写していた。
アスカはそんな二人のぼんやりとした姿を見ながら、「うん」とだけ答える。喉の奥に言葉が引っかかって出てこない気がした。
「仕事、上手くいかなかったの?」
「……」
なんだか自分のことを見通されている気がして、アスカは黙ったまま、カップに口をつけた。
はちみつ入りのホットミルクの甘い味が口の中に広がってはゆっくりと消えていく。アスカは何も言わずにもう一口、ホットミルクを飲んだ。
無言の時間が続いていた。
シンゴもアスカが何も言わないことが答えだと思い、それ以上は何も言わなかった。
黙って隣にいるだけ良い時があるということをシンゴは知っていた。
「バレたの」
アスカはホットミルクを半分くらい飲んだところで、口を開いた。
意外なアスカの言葉にシンゴは一瞬面食らう。
シンゴが想像していなかった返答だった。
「それはターゲットにってこと?」
「そう。ターゲットにバレたけど、依頼してきたのはレナの幼馴染の男だと思ってるみたい。だから、依頼者が誰かはバレてないわ」
「だったら、どうにでもなるんじゃないの?」
「そうなんだけど……」
アスカはそこで言葉を区切り、考え込む。
シンゴには一体アスカがなぜそこまで悩んでいるのかがわからなかった。アスカが思うより、随分と事態は単純なように思えたからだ。
「あのね……。依頼者が嘘をついてるみたいで……」
「えっ? 浮気はしてるんでしょう?」
「ええ。でも、依頼者が思ってるより、浮気の実態はひどいものだったわ。依頼者が把握してるより、ターゲットの浮気相手は多いし……」
「……多いってどのくらい?」
「レナ以外に三人もいて、尚且つ、レナはその中でも一番じゃないわ」
アスカの言葉にシンゴは息をのんだ。
「……それはひどい」
「でしょう? 私も正直、驚いたわ」
「でも、依頼者も嘘をついてるんだろう?」
「そうなのよ。依頼者は妊娠してるって私に言ってたの。でも、ターゲットの話によると、関係はないから、子どもが出来るはずはない、って」
アスカは自分の口から発せられる言葉を一つ一つ確認するように、ゆっくりと喋った。
「妊娠してないのに、妊娠してるって言ってた……?」
「ね、理解しがたいでしょう?」
「何か理由がない限り、そんな嘘を第三者の君につく必要はないよね」
「そうなの。ターゲットにじゃなく、私になぜそんなことを言ったのか……。子どもが産まれる前に浮気をやめさせたいって言ってはいたけど……」
「てことは、早く別れさせてもらう為に、君に嘘を?」
「……そういうことだと思うんだけど、なんだか腑に落ちなくて……」
「僕も話を聞いていて、納得は出来ないな……。でも、一体、なんの為に……?」
「全く見当がつかないわ。一度、依頼者には色々と報告もしなきゃいけないし、会わなきゃいけないんだけど、なんて切り出そうかと思って……」
アスカは困惑した表情のまま、ぬるくなったホットミルクを喉に流し込んだ。
シンゴはもう寝るというアスカと別れると、書斎に戻った。
原稿は書き終わっている。読み終わった後、清々しい気持ちになれるようにハッピーエンドにした。あとは推敲を終えれば、原稿を送れる。
シンゴは文字の並んだ画面を見ながら、首を傾げた。
小説はフィクションだ。けれど、現実の方が随分と衝撃的なことが多い。
今回だってそうだ。小説のモチーフはアスカのことだけれど、結末は至って明快だ。しかし、アスカの前に立ちふさがった事実は複雑だった。
それにしても……とシンゴは思う。
どうして、依頼者はアスカにあんな嘘をついたのだろうか?
シンゴにはどうしてもその理由が思いつかなかった。
早く解決してほしい、というのは、依頼者の心情としては理解出来る。けれど、それだけの理由にしては、いささか弱い気がするのだ。
もしかして……とシンゴは思う。
でも、そんなことはあるわけない、とも同時に思った。
シンゴは文字の並んだ画面を見つめたまま、一つの可能性について、思考を巡らせ始めていた。
翌日、アスカはマキコに電話をした。依頼の進捗を報告したい、と言ったら、マキコは来ると言った。
アスカは電話を切ってからずっとマキコを待っている。
マキコが来ることが気になって、他の仕事が全く手に付かない。
煙草の吸殻だけが、灰皿に溜まっていった。
アスカは時間の無駄遣いだと思い、立ち上がると掃除を始めた。
普段、アルバイトたちが掃除をしているとは言え、アスカの机は手つかずだ。書類が山のように積まれ、今にも雪崩を起こしてしまいそうだった。
書類を一枚一枚確認しながら、シュレッダーにかけるものと、ファイリングするものへと分けていく。
どうして、こんな風になるまで放っておいたのだろうと、自分の怠惰さに溜め息をつきながら、アスカは書類を次々仕分けていった。
その時だった。
はらはらと一枚の写真が床に舞い落ちる。
アスカは写真を拾い上げると、確認する為に写真を見据えた。
「え? これって……」
アスカの持っている写真には、なぜか依頼者のマキコが写っていた。
続き>>01-351~01-360「加速」まとめ読みへ