小説「サークル○サークル」01-71~01-80「動揺」まとめ読み

「君は……」
黙々と食べているアスカにシンゴは思い詰めたような声で言った。アスカは咀嚼しながら、目だけで「何?」とシンゴに問いかける。シンゴは一瞬躊躇うようにアスカから視線をそらし、徐に口を開いた。
「君はその誘いを本当に断りたいと思った?」
「えっ?」
シンゴの言葉にアスカは思わず、手に取りかけたほうとうの入ったお椀をテーブルの上に置いた。
「何言ってるの? 当たり前じゃない」
「そうだよね……。ごめん」
シンゴはアスカを見ずに相槌を打つ。アスカは音のない溜め息をついて、ほうとうの入ったお椀に再度手を伸ばした。
アスカがほうとうをすする音だけが部屋に響く。シンゴは何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。自分の言葉が嫉妬から出たものだという自覚があったからだ。けれど、嫉妬だけでそのように思ったわけでは決してなかった。アスカの仕事のことを話す目は――ヒサシのことを話す目は明らかにいつものアスカとは違っていたのだ。口説かれた話をシンゴにするか、しないか迷ったその目は、いけないことをしている子どものようにキラキラとし、まるで恋をしているように、シンゴには映っていた。

アスカはシンゴの言葉に少し引っ掛かりを覚えながらも食事を完食し、席を立った。食器を片付けようとすると、シンゴが「いいから、お風呂に入ってきなよ」と言ったので、彼女はシンゴの言葉に甘えてそのまま風呂場へと直行する。
シンゴは食器を片付けながら、さっきのアスカの目を思い出していた。明らかにあの目は恋する女の目だ。いくら売れていなくても作家は作家だ。人間観察はどんな場所でもどんな時でも欠かさない。些細な人の表情を見逃したりするわけがなかった。それが自分の妻であれば尚更だ。
シンゴは食器を洗いながら、どうするべきか悩んでいた。「君は恋をしているね」と言えば、アスカのことだから、「そんなことないわ」と言うに決まっている。「恋をしているの?」と訊いても同じことだ。どうすればいいのか――それは、彼女が自覚するような出来事が起こる場面を押さえるしかない。即ち、浮気の現場を押さえるということだ。
僕は一体何を考えているのだろう、とそこまで考えてシンゴは思った。

シンゴとて、アスカに浮気をしてもらいたいわけなどではない。第一、アスカがヒサシのことを好きだったとしても、ヒサシにその気がないかもしれないではないか。アスカを誘ったのだって、ただ気の迷いや冗談かもしれない。けれど、それは自分がそう思いたいだけだと、シンゴにはわかっていた。そんな気休めはいらない。シンゴは必死で考えた。アスカが浮気に走らないように何をするべきか、それとも走らせて間違いに気付かせ、やめさせるべきか――。
そこまで考えて、ふと自分を振り返った。浮気は良くないことだけれど、浮気をするにはそれなりの理由があるはずだ。その理由は紛れもなく、自分にあるのではないか、とシンゴは思った。うだつのあがらない夫である、という自覚は存分にある。アスカに養い続けてもらっているという後ろめたさもある。けれど、アスカを愛しているという気持ちだけは本物だ。その思いをアスカはわかっているのだろうか。いや、わかっていてもそれはあまり関係ないのかもしれない。相手が自分を愛しているかどうかが問題なのではなく、自分が相手を愛しているかどうかが問題なのだ。もしアスカがシンゴを愛していなければ、「浮気をしない」理由などないに等しい。結婚しているという、ある種の契約だけで、人の心まで縛れないということをシンゴは痛いほど知っていた。

シンゴは自分の過去を思い返す。アスカとの結婚はシンゴにとって、二度目の結婚だった。一度目は担当編集者と結婚した。けれど、長くは続かなかった。仕事中だけでなく、プライベートな時間まで、仕事のことが過ぎるようになってしまい、シンゴは一緒にいることを窮屈に感じるようになってしまった。勿論、だからと言って、シンゴは浮気などしなかった。それは妻に対しての誠意などではなく、そういった環境になかったことと、浮気をするだけの度胸がなかったからだ。浮気をするには、それなりの覚悟がいる。バレた時にどうやって切り抜けるのか。バレれば罵られるかもしれないし、殴られるかもしれない。ただ愛想を尽かされるだけかもしれないし、泣かれるかもしれない。どんなことが待っているのかわからなかったけれど、修羅場を迎える可能性は高い。そうなった時、自分がどんな状況にも耐えうるだけの強いハートを持っているのか、と自問した際、シンゴの答えはノーだった。強いハートがないのであれば、浮気はしない方が良い、とシンゴは結論付けたのだ。

結婚が上手くいってなければ、浮気くらいしたくなる。意識しているのか、無意識なのか、その違いはあるにせよ、浮気をしたいと思うことに男女間の差異はほとんどないのだろう。新しい刺激が欲しい、パートナーより素敵な相手がいて心惹かれるなど、浮気なんて、恋に落ちるのと同じくらい単純で、星の数ほど理由があるに違いない。
けれど、結婚しているのに浮気に走る、となってくると、恋に落ちるのと話は別だ。理性はどこへ行ったのか、という問題がある。しかし、そもそも色恋に理性を求めること自体がナンセンスな気もしていた。そして、シンゴは考える。アスカの浮気を肯定したくはない。浮気をしそうな状況なら今すぐにでも止めたい。だけど、今ここでそんなことを口にしても、火に油を注ぐようなものかもしれないとも思っていた。反対されれば、余計に浮気をしたくなるかもしれない。アスカは本当に自分の気持ちに気が付いていないのに、気付くきっかけを自分が与えてしまうかもしれない。だったら――自分が変われば良いのだ、とシンゴは思った。もう一度、自分がアスカを振り向かせればいい。離れてしまった気持ちをまた自分に向ければいいんだと思った。シンゴにはそれが何よりも安全で手っ取り早いように思えた。幸いにも最近会話が成立するようになってきている。今日だって、あんなにたくさん話せたではないか。きっと険悪な一時期よりも今の方が状況は幾分もマシになっている。そう思っていた。

アスカはシャワーを浴びながら、仕事のことを考えていた。アスカが請け負っている仕事以外にも事務所としていくつか仕事をしている。アルバイトたちもよく働いてくれていて、特に心配するような状況でもなかった。一番の問題はアスカが抱えている案件だ。マキコからは連絡はまだない。たった二、三日では状況は変わらないだろう。気長に待つしかないけれど、やはりイライラや不安は次第に募っていく。そんな時、シンゴが温かい食事を作って待っていてくれるというのは、幾分心が和んだ。アスカの話を聞いてくれて、尚且つ的確なアドバイスもくれる。作家という仕事柄か、シンゴの発想はいつだってアスカとは違っていたし、良い刺激にもなった。けれど、シンゴにはどうしても男を感じなくなっている。極端な話をすれば、セックスをしたいと思わない、ということだ。シャワーを浴びながら、アスカは自分の身体に視線を落とす。いつから誰も自分の身体に触れなくなったのだろうか。お湯が滑り落ちていく肌は今もまだきちんと水を弾き、肌理の細やかさは健在だ。なんだかそんな自分の身体を見ていると、可哀想に思えてきた。きちんと女として機能するのに、使われていないということが情けなくもあり、勿体なく思えてしまう。そんなことを思ってしまう自分は贅沢なのだろうか。アスカはシャワーを止めて、溜め息をついた。

アスカは今日も事務所に寄った後、バーに来ていた。アルバイトは今も続けている。マキコに調査の停止を求められてからすでに二週間が過ぎていた。時間が過ぎるのはとてつもなく早い。その間、シンゴとは言葉を交わすことが増えたけれど、特に大きな変化はなかった。相変わらず、男として見ることが難しく、ただの同居人と化していた。もしかしたら、彼が仕事に意欲を見せ、彼の収入がアスカの収入を上回ったり、活き活きとした表情を見せるようになれば、少しはこの状況も改善されるのではないか、と思っていたけれど、シンゴにその様子は微塵も見えない。主婦業は完璧だったが、それだけだった。その点、今目の前にいるヒサシは魅力的だった。今日は珍しく一人で飲みに来ている。きっとここで待ち合わせをしているのだろう。少し遅れて、またいつものようにキレイな女の子が来るに違いない。そして、彼はその女の子とホテルへ消えていくのだ。
そんなことを思っている自分にアスカはうんざりした。最近の自分は色恋のことばかり考えている。仕事に精が入っていないようにさえ思えた。

ヒサシは珍しくバーボンを頼んだ。アスカはオーダーされたバーボンとミックスナッツを持って、ヒサシの元へと行く。ヒサシのところにオーダーの品を持って行くだけなのに、ドキドキする自分に内心苦笑した。これではまるで片思いをしている中学生のようではないか。
ヒサシの前に着くと、アスカはオーダーの品をテーブルの上に置いた。
「バーボンとミックスナッツでございます」
アスカの姿を見て、ヒサシは笑みを零した。瞬間、アスカは胸の奥がきゅんとしたことに驚いた。完全に自分がヒサシに気持ちを奪われていることに気が付いた瞬間だった。
「今日は一人なんだ」
訊いてもいないのにヒサシは言った。
「そうなんですね」
「今、珍しいと思ったでしょう?」
「はい」
アスカは素直に答えた。今更、ヒサシになんの遠慮がいると言うのだろう。嫌という程、ヒサシが違う女を連れて来ていたのを見ていたのだ。
「たまには一人で飲みたくなることもあるんですよ」
ヒサシは言って、苦笑する。伏し目がちの目に何だか哀愁まで感じてしまうから不思議だ。完全にヒサシに心を奪われているのだ、とアスカは思った。どこか冷静でいられるのは、彼女がヒサシとの接触は仕事の一環だという自覚をしているからに他ならない。けれど、いつか仕事だというこの自覚を飛び越えてしまいそうなことに、アスカは不安を感じていた。

「だから、今日は少し話し相手になってもらえませんか?」
相変わらず、紳士的な物言いにアスカはくらっとしてしまう。
「はい。幸い、今日はお客様もいつもより少ないですし」
アスカが笑顔で返すとヒサシも微笑み返した。こんなにも容易く微笑み返す男はなかなかいないが、それが女の心を簡単に掴んでしまえる理由なのかもしれない。アスカはヒサシが激昂したり、不機嫌になったりする情景を思い浮かべることが出来なかった。いつでも穏やかに物事を解決してしまえるような気がしていた。きっと女をイライラさせたりはしない。そんな風にさえ思えた。
女は余裕のある男に弱い。それをきっとヒサシの端々に出る態度で感じるのだ。そして、妻帯者でありながらも、他の女はヒサシの魅力に憑りつかれてしまう。もしかしたら、この余裕は妻帯者だからこそのものかもしれない。けれど、ヒサシの魅力に憑りつかれた女にはそんなことなど関係なくなってしまうのだろう。独身の男にはない魅力で女の心はいとも簡単に骨抜きにされてしまうのだ。

他愛ない会話が進んでいく。最近の天気予報が当たらないとか、日に日に寒さが増しているとか、見知らぬ誰かとでも交わせるような内容の話ばかりが続いていた。傍から見ていれば、和気藹々としているように見えるが、そんな状況にあってもアスカは物足りなさを感じてしまう。もっとヒサシのパーソナル部分が知りたい、もっと自分のことを知ってもらいたい、と彼女は思わずにいられなかった。けれど、そんなことは口が裂けても言えない。それは仕事としてヒサシに接触しているからなのか、それともただ単にヒサシに恋するあまり嫌われるのが怖くて言い出せないのか、アスカにもよくわかってはいなかったが、明らかにそういった感情は恋をしたから持つものだということを彼女は自覚していた。そんな自分に嫌気がさしたけれど、アスカはどうすることも出来ずにいた。
そんな時だった。ヒサシから意外な言葉が飛んできた。
「そう言えば、ご結婚されているんですか?」
「えっ……」
アスカは一瞬言葉に詰まる。
「どう見えますか?」
咄嗟の判断にしては上出来な返しだ。まさか、ヒサシからそんな質問をされるなど微塵も思っていなかったアスカは、ヒサシの次の言葉にどう答えるべきか頭を悩ませていた。

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「サシアイ」1~16話まとめ読み

「結局、日本酒は米が一番重要だよな」
 そう言って俺は徳利を差し出した。
 対面に座る友人、槇村卓(まきむらたく)の杯に酒を注ぐ。
 いずれも備前焼、味わいある桟切模様の逸品━槇村に舐められたくない一心で、俺はこれらの酒器を買い揃えた。
「うまい酒を飲むための手間は惜しめないからな。
 もちろん、農水省の作況指数を鵜呑みになんかしないぜ?
 ここぞと思う産地には自分の足で出来不出来を確認に行く━で、近郊の蔵元で買い付ける。これで十中八九はうまい酒にありつけるな」
「ふ~ん、米ねぇ……」
 俺の主張をニヤニヤ笑いながら聞いていた槇村は、ぐいっと酒をあおると熱い息を吐いた。
「まあ、間違っちゃいないとは思うけどね。
 僕は絶対に水が先だと思うな。味噌や醤油と一緒だよ━まずは、清水ありき、さ」
 明らかに俺より飲んでいるはずなのに、槇村の弁舌は乱れない。
 外科医がパニックに陥った助手を窘める様に、穏やかに、しかして理路整然と切り返してくる。
「老舗の蔵元はきれいな水源に集まっているだろう?
 そして動かない、というか、動けない。米の不作が続く事もあったろうさ。でも、不動のままだった。水が最も重要とされてきた証拠だよ」
 槇村は更に杯を重ねた。

 実際、槇村の酒に関する造詣の深さは、俺も一目置かざるを得ない。
 しかも、細面で、鼻梁が高く、なかなかの美男といえる。イケメンの解説は、不思議と説得力が増すものだ。
 まあ、俺にとっては、槇村の解説を不快にする要素のひとつでしかないが……。
「それに現代人の感覚では、米も水も運搬に差異は感じないけど━いや、むしろ水道の発達で水の方が気安いかな。
 日本酒の蔵元は江戸時代から続く老舗がほとんどだよ。その当時、大量の水を確保する事がどれほど大変だったか分かるでしょ?
 君の考えは、原材料の熟成に重きを置いた洋酒や果実酒になら当てはまるかもしれないが、こと日本酒に関しては━」
 これ以上、槇村に意見されるのはプライドが許さなかった。槇村の言葉尻を潰し、俺はいささか声を荒らげた。
「そんな事は常識の範疇だ! それじゃあ進歩がないだろうが!
 本当の酒好きだったら、自力で新しい蔵元の、新しい酒を見つけ出す喜びを知れって話だ!」
「ふっ、そんな話をしてたっけ?」
 興奮する俺の様を鼻で笑い、さらに酒をあおる槇村━そのまま杯を伏せた。どうやら、今日の試飲会はここまでのようだ。

 俺と槇村は、毎週末、この酒の試飲会を開いている。
自他共に認める酒好きの俺たちは、大学一年の歓迎コンパで知り合い、自然と意気投合━事あるごとに自慢の酒を持ち寄るようになっていった。
 ただ、神聖なキャンパスにアルコールを持ち込むのは如何なものかと、いっそ定期的な酒宴を催す事にしたものだ。
 今日はたまたま日本酒だったが、洋酒、果実酒、蒸留酒━アルコールが入っていれば何でもござれの暴飲会である。
 大学生の分際で酒道楽とは我ながらどうかとは思うが、酒屋の息子だ。温情願いたい。
 ちなみに槇村の実家も醸造業で、国内屈指の作り酒屋である。いわゆる御用聞きのうちとは天地の差だ。この点でも、槇村は俺のプライドを傷つける存在だった。
「来週はお前の番だな━何を飲む?」
「ちょっと珍しい酒が手に入ってさ。まあ、任せてよ」
 自信ありげな槇村の表情と、生来の負けず嫌いが俺の闘志に火を点ける。
「へぇ、ちょうど俺も面白い酒を見つけたところだ。あれはそう簡単に手に入る代物じゃないな」
 別にそんな酒は用意していない。
 口は災いの元とはこの事だ━結果、自慢の酒を用意するため、俺は翌日から全国を奔走する破目に陥った。
「じゃあ、お互いに持ち寄る感じでいく?」
「いいとも、楽しみだな」
 次の試飲会の時間を約束して、俺達は別れた。

 槇村のマンションは港区白金の一等地にある。
 36階建、白亜の殿堂といった趣の、一般庶民の妬みと嫉みが地縛霊を招き寄せそうな佇まいである。有名な酒造メーカーの御曹司ともなれば、その最上階に居座るのも当然と感じられるものなのだろうか。
 部屋にあがると、小型のハウンド犬が唸り声をあげて“歓迎”してくれた。
 犬の抜け毛が盃に付着する可能性から、酒飲みの風上にも置けぬ奴、と槇村を責め立ててみる事を思いついたが、塵ひとつない室内を確認するに至り胸中に留めた。
 既に酒宴の仕度は済ませてあった。俺は槇村に勧められるまま上座へと着く。
「で? 面白い酒ってのはどれ?」
 俺が口から出まかせを言った事を見透かしていたのだろう。出せるものなら出してみろ、と切れ長の目が語っている。
「こいつだ━」
 俺はこの一週間、東奔西走して入手した(急ごしらえの)自慢の酒を取り出した。
「蒸留酒? シードルかい? 珍しくもないなぁ」
「使われている林檎が特別なんだ。
 フランスのブルゴーニュ地方で取れるプラティーヌ━白金と名付けられた希少種さ」
「ふ~ん……」
 俺からグラスを受け取り、一口含んだ槇村の顔に驚愕の色が走る。
 なかなか心地良い瞬間だ。大学の講義を一週間もさぼった甲斐があったな。

「どうだ? 変わった味だろう?
 深い甘みがある半面、成熟過程での酸味もまったく失われていない」
「…………」
「プラティーヌは傷みやすい品種らしく、農薬も受け付けない。
 収穫できるようになるまでにはかなりの手間がかかるんだ。そいつをふんだんに使って蒸留した酒だからな。
 なかなか手に入らんのよ」
「確かに、面白いな。
 鼻に抜けるような芳醇さがあり、それでいて癖が無く飲みやすい……、まあ、うまいよ」
 いつもの穏やかな笑みを浮かべたつもりなのだろうが、槇村のそれは口角の筋肉を歪める程度に留まった。
 どうやら平素の自信をいささかなりとも傷つけられたようだな。
「それで? お前も酒を出せよ」
 俺はここぞとばかりに畳みかける。
 自然と声が大きくなっているのが分かった。
 応じて槇村が取り出したのは茶色の大瓶━底の部分で何かが“とぐろ”を巻いている。
「おいおい、ハブ酒かよ。
 まあ、意外ではあったけど、別段、珍しくはないぜ」
 奇を衒うとは槇村らしくもない━今日の勝利を確信し、俺は内心ほくそ笑んだ。
「そのハブをよく見てよ」
 そう促され、俺は酒に浸けられた瓶底のハブを凝視した。

(あっ━)
 驚いた事に、そのハブは一つの胴体から二つの頭が生えている。いわゆる“双頭の蛇”という代物だったのだ。
「これは……、頭が二つ!?」
「珍しいでしょ? 稀にある奇形でさ。
 このハブ酒の製法自体は特別なものじゃないけど、縁起物と見る向きもあって結構な値がしたよ」
 確かに希少価値としては抜群だろう。
 珍しい酒を持ち寄るという今日の試飲会の趣旨からすると、これは一歩譲らざるを得ない気もする。
 しかし、チラリとのぞき見た槇村の表情に、勝者の色はなかった。槇村は槇村で、俺の酒の方が、稀少と思っているのかもしれない。
 ここで下手なアピールをしては恥をかく事になりそうだ。引き分け、再戦へと持ち込もう。
「ま、まあ、これは俺が集めた秘蔵の酒のごく一部だけどな」
 案の定、槇村は俺の話に乗ってきた。
「ああ、僕も見せたいお酒がまだまだあるよ」
「じゃあ、希少酒という同じテーマでリマッチといくか?」
「OK、そうしよう━」
 うまく話をまとめた様で、何の事はない、すべての問題の先送りである。
 そして、この日を境に俺達の流浪の旅が始まった。

 珍しい麹を使った日本酒だの、歴史上の人物が醸造した焼酎だの、果ては酒瓶自体が年代物の陶磁だの、珍しい酒の噂を耳にすれば、東西南北、何処へでも向かった。
 槇村に試飲会で勝利する━プライドと嫉妬、伴う知識探究への喜び、様々な要素が相まって、いまや俺の生活はそれだけに占められていた。
 自然と大学は休みがちになり、この一ヶ月は顔も出していない。
 今日等、同じ学科の友人が心配し、電話をよこしてくれた。
「おい、どうして大学来ないんだよ!
 このままじゃ単位が足りなくなるの、分かってんだろ!?」
「いや、心配させて悪いな。ちょっと調べ物が忙しくってさ」
「調べ物?
 論文か何か、か? なんなら協力するぜ?」
「ああ、うん、そうだな。
 お前さ、何か珍しい酒とか、うまい酒とか知らないか?」
 絶句に次いでの深いため息。俺の酒好きを知っているせいもあり、さすがに友人は呆れたらしい。
 そのまま電話を叩き切ろうとするのを慌てて止める。ひとつだけ確認したい事があったのだ。
「時に槇村━槇村卓はどうしてる?」
「ああ、お前と同様にずっと休んでるよ。
 休みの時期が完全に被っているもんだから、お前らおかしな仲なんじゃないかと疑われてるぜ」
 予想通りだ。試飲会では余裕を見せてはいるが、既に槇村もネタ切れに違いない。俺と同様、全国を駆けずり回って、奇酒を求めているのだろう。

「あははは、やっぱりな、ははははは!」
 クールな槇村が懸命に値段交渉する様子を想像し、俺は思わず吹き出してしまった。
「何が可笑しいんだよ、お前、大丈夫か?」
「ははは、大丈夫さ! むしろ爽快だぜ!」
「お前、まさか……」
「ん?
 いやいや誤解だ! 一口も飲んでないって!」
 講義をさぼって昼間から酒を飲んでいやがった、そんな悪い噂━まあ、ほとんど真実なんだが━を触れ回られてたまらない。俺は込み上げる笑いを奥歯で噛み殺した。
「とにかく大学に来いよ。一応、みんな心配してるんだからな」
「分かった、分かった、ありがとな」
 あの槇村がそこまで追い詰められているのだ。先に降りられるものか。
 しかし、自ら志望し、親に仕送りを強いてまで通わせてもらっている大学だ。
 この不景気、酒屋の上がりなど知れている。これで留年となれば、親がどれだけ落胆するか。さすがにそれは辛い。
 俺は酒を探索する忙しさにプラスして、最低限の講義に出席せざるを得なくなった。

 大学の講義と酒探し━睡眠時間すら削られる状況だったが、俺も槇村も例の試飲会を止める事はなかった。
「これは知ってる?
 “雄蛾酒”っていう中国の薬酒だ。雄の蛾の胴体部分を浸けたものさ。強烈でしょ?」
「そんなのは常識の範疇だな。
 中国ならこっちの方が凄いぜ━ガマガエルの脂肪を浸け込んだ酒だ」
「悪くないけど、稀少ってほどではないかな。
 これは“虎骨酒”━トラの骨を酒に浸けて、その強さを得ようというシャーマニズム的な意味合いから生まれた珍品さ」
「それも常識━。
 こいつはこっそり紹介するが……、様々な動物の睾丸を浸けた違う事な強壮酒だぜ」
 より珍しいもの、相手が入手していなさそうなものを追い求めるうち、試飲会に用意される酒は、どこか奇を衒った、アンダーグラウンドな珍品が多くなった。結果、二人とも一口も飲まずに終了する日さえあった。
 それでも、槇村がすでに所有済みの酒を紹介するのは屈辱的だったのだ。恐らくは槇村もそうなのだろう。
 試飲会に持ち寄られる酒のラインナップは、徐々に珍妙さの度合いを増していった。

 大学から帰宅してポストを覗くと、衛星放送テレビの機関紙が投函されていた。
 普段ならそのままゴミ箱に直行なのだが、表紙にコミカルなイラスト文字で描かれた“酒”の一字に引っかかり、ぱらぱらと捲ってみた。
 記事を読み始めて直ぐ、俺は息を飲んだ。進新気鋭な酒の評論家として槇村が紹介されていたのだ。
 しかも、CSとはいえ、テレビ出演の予定も掲載されている。
(槇村のヤツ……)
友人の誉れを讃えたい気持ちは微塵も無い。イケメンはいいよなぁとおどける余裕もない。
言い様のない怒りと寂しさ、敗北感で胸がいっぱいになり、俺は機関誌を丸めて地面に叩きつけた。
確かに肝胆相照らすという仲ではなかっただろうが、共通の趣味を持つ者として黙っていられた事に腹が立った。
そして、槇村の知識には俺が教えたものも少なからず存在するはずという自負が、その感情を延焼させていく。
俺は昂る気持ちに任せて、CSテレビのクレーム受付に電話をかけてしまった。
それが八当たりでしかない事は、憤懣の最中でも判断が出来ていた。それでも抑えきれなかったのは、このままでは自分だけが置いていかれるという恐怖にも似た寂しさのためだった。
(あるいは、試飲会で打ち負かせば……)
それで槇村が自らの未熟を悟って評論家を辞退する? 我ながら夢想の範疇と思わざるを得ない。
それでも俺は更に深く酒選びに没頭するのを抑える事が出来なかった。
睡眠時間は更に短くなった。

深夜2時、携帯電話が鳴った。
貴重な睡眠を妨げられ、俺は極めて不遜に応対した。
「……もしもし?」
槇村だった。いつもの穏やかな中にも冷徹さを感じさせる声音ではない。どこか怯えたような、不安で押し潰される寸前といった様子が伝わってくる。
「例の試飲会、今からやらない?」
「今から? 夜中の2時だぞ?」
「いや、悪い……。
 でも、たった今、珍しい酒が手に入ってさ……」
嫌な予感はした。それでも評論家の件を知って以来、多少の隔たりを感じていた俺は、槇村の申し出が嬉しかったのだ。
行くと返答してからの身支度、外出は、思い掛けずに早かった。

「悪いな、遅くに……」
そう言って玄関のドアを開けた槇村の顔に、俺は思わず息を飲んだ。
「酷い顔だな、大丈夫か?」
暗い顔色と目の淀み、お洒落な槇村には珍しいボサボサの髪━やつれたと表現しても差し支えのないレベルだ。普段は様相のいい男だけに余計に目立った。
苦笑した槇村は、俺の顔を指差した。
「人の事は言えないな。
 フラフラした足取りで今にも倒れそうに見えるよ」
それは意外な答えだった。
まったく気付いていなかったが、俺もこんな感じにやつれているのだろうか?
睡眠不足? アルコールの過剰摂取? 単位不足への不安? 槇村への嫉妬と焦燥? 様々な要素を羅列してみたが、目の前の槇村のやつれを形成するほどとは思えなかった。

「まあ、上がってよ━」
そう手招きした槇村の袖口に奇妙な染みを見つける。
(赤い……、血か?)
「なかなか忙しくてさ……。
 君もだろうけど、酒の知識に関してだけは誰にも譲れないところがあるんだ。実際、頼られたりもしているし、日々勉強で疲れているのかもしれないな」
評論家の事を言ってやがるな━嫉妬の苦味が俺の胸に滲み出した。
「“狗肉酒”ってのがあってさ。
 犬の肉を浸け込んだ強壮を目的とした薬酒なんだけど、何故か、これがなかなか手に入らないんだ……」
 リビングは薄暗かったが、ダイニングテーブルの上に口の大きな酒瓶の置いてあるのは分かった。同時に独特の強いアルコール臭が鼻を刺す。
「でも、製法は分かったんでね。
 これはひとつ、自家製“狗肉酒”を試してみるしかないかなって……」
俺は足を止めた。いつまで経っても槇村の友人と認めず、無遠慮に吠えかかってくるハウンド犬の“歓迎”がない事に気付いたのだ。
嫌な予感に佇む俺に嘆息し、槇村がリビングの照明のスイッチを押した。

果たして、照らし出されたダイニングテーブル上の酒瓶の中には、正体不明の肉片が沈んでいる。それが何の肉なのか、どこで入手したものなのか、問い質してみる気にはとてもなれなかった。いや、軽い嘔吐感がこみ上げていたので、出来なかったというのが正しいかもしれない。
「野良犬でもと思ったんだけど……。
 なんというか、飼い犬を間違える可能性を鑑みると、ひと様に迷惑をかけるのは良くないかな、と思ってね」
淡々と答える槇村は、笑っているような、悲しんでいるような、奇妙な表情を浮かべていた。その場にへたり込んだ俺の顔を覗いてくる。
「さあ、ここまでやったんだ━僕の勝ちだよね?」
そう言って詰め寄る槇村の瞳には、狂気の陰りが見て取れた。そして槇村の報告を鑑みれば、恐らく俺の瞳にも同種のものが宿りつつあるのだろう。
まずい。この流れはまずい。
負けたと言え━このまま付き合えば、俺も槇村も……。
胸中、冷静に叫ぶ俺がいる一方、自分だけが置いていかれる恐怖、それを完全に払拭する好機だと囁く何者かもいた。
また同じスタートラインに立つために避けては通れない、そんな啓示が痺れた頭蓋に鳴り響く。
やがて、俺の唇は、別の意思を持ったかの様に蠢き、細く震える声を漏らした。
「常識の範疇だな……」

ナイフの切っ先が震えている。
罪の無い動物を傷つける悲しみや辛さは、まともな神経を持った現代人であれば、誰でも持っているはずだ。しかも享楽を目的に━作業中、俺は何度も涙を拭った。
「ははは、槇村か?
 俺も珍しい酒を手に入れたぞ。今から試飲会をやろうぜ」
ここまでやったんだ、俺の勝ちでなければ困る━それは強迫観念に近い。言わば思い込み、捏造された安堵感に自然と笑いが込み上げた。
「……珍しい、酒?」
電話口の向こうから、槇村の不安げな声が聞こえてくる。
「ああ、猫の心臓を酒に浸けた“猫肝酒”っていう薬種だ。滅多に手に入らない珍品だぜ」
そんなものは世界中どこにもなかった。たった今、俺の手で生み出されたオリジナルだ。
「ははは、それは珍しいね。あはは、酷い奴だな、君も━」
「ああ、そうとも。
 どうだ? あはは、俺の勝ちだろう?」
すがる様な思いで携帯電話を耳に押し付ける。じっと槇村の返答を待った。
「うふふ、どうかな。僕なら、もっと珍しい酒を入手できるけどね━」
明るく笑いながらも、槇村の声音は震えていた。対する俺は悲鳴に近いトーンで、判定に不服を申し立てる。
「いやいや、俺の勝ちのはずだ!
 なぁ、槇村、そうだろう!? これは俺の勝ちだぜ!」
「まだだよ。
 勝手に決めないでよ、僕はまだできる……」
「駄目だ、俺の勝ちだ! 頼む、槇村、そうだろう!?」
「あはは、楽しみにしていてよ」
無情にも通話と共に俺達の精神の糸が断ち切られた。

動物愛護法と窃盗、あるいは廃棄物の処理関係か━様々な法に抵触しながら、俺と槇村の狂気は加速していった。
「“兎耳酒”というのを入手したよ!」
「今日は“鶏冠酒”というのが見つかったぜ!」
「あははは、“雀舌酒”━これはなかなか洒落てるね!」
「こっちは“羊骨酒”だ! うははは、ウールマークでも申請するか!」
「“猿尻酒”っていうのを見つけた! もちろん赤色さ!」
「ひひひひ、“豚足酒”だぜ! これは料理酒でアリだろ!」
俺は初めて精神(こころ)を麻痺させるために飲む酒を知った。
毎日、浴びる様に酒を飲み、大脳辺縁系が望むに任せて、時に大泣きし、時にはゲラゲラ笑いながら“作業”を進めた。常に発狂の予感と隣り合わせの毎日だった。
しかし、正気と狂気の縁を走る俺達のチキンレースは、槇村の“馬蹄酒”の提出をもって手詰まりになる。
これを超えるには、ゾウ酒? カバ酒? そんなもの捕まるわけがない。
いや、それ以前に、巨体を浸す酒瓶が存在しないのではないか。
既に正常な判断力を失いつつあるのか━俺は用意し得るものなのかを、あくまで真面目に河童橋の容器専門店で訊ねてみた。
店主は呆れながらも、その問い合わせが本日二度目である事を教えてくれた。獲物はクロサイ━確認するまでもない。槇村も同じ所に行きついているのだ。
俺は焦った。アルコールで蕩けた脳みそを駆使し、懸命に打開策を探った。

実は、ひとつだけ、確実に相手を凌駕し得る方法が見つかっている。恐らくは槇村もそれにたどり着いたはずのものだ。
(あとは、先に実行できれば……)
そう、実行さえできればすれば勝利は確実だった。
しかし、痛飲した大量の酒も今度ばかりは頼りにならず、結局、俺は躊躇してしまう。
この時点で、少なくとも俺の勝利は無くなった━。

どうしてこうなった? 何故、止められなかった? 槇村のマンションへの道すがら、答えが出るはずも無い自問を繰り返した。
水は自然が生み出したもの、酒は神が分け与えたものという━槇村の知識と美貌は、神様の招聘に適うものだったのかもしれない。
これから目の当たりにするであろうそれを夢想し、俺は神々しさに胸打たれた。同格を望むなど、土台無理な存在だったのだ。
俺の来訪を予測していたように、槇村のマンションのドアには鍵が掛かっていなかった。俺も迷うことなくリビングへと向かう。
すべてを確認するため、照明を点けた。
「クロサイの、間に合ったのか……」
果たして等身大の酒瓶の中、勝利を確信した微笑みを死相に浮かべ、全裸の槇村が浸かっていた。

小説「サークル○サークル」01-83. 「動揺」

 ヒサシの言葉に浮かれている自分がいる。けれど、これは仕事なのだと冷静なもう一人の自分が諭す。揺れ動く気持ちの中でアスカはヒサシに笑顔を向けた。どうとでも取れる笑顔だ。嬉しいとも、ふざけたことを言わないでとも。アスカはヒサシの前から去ろうと、踵を返した。ふいに強い力で腕を引っ張られて、彼女は振り向く。ヒサシの大きな手がアスカの左腕を掴んでいた。
「何か?」
 アスカは冷静を装いながら言う。それ以上の言葉はとてもじゃないが、思いつけなかった。
「離したくないと言ったら怒る?」
「それは……」
 ヒサシの目はいつになく真剣で、アスカは答えに詰まった。目を伏せ、適当な言葉を探すけれど、気の利いたセリフを思いつけない。アスカが迷っている間にも、ヒサシの手に込める力が強くなる。「離して下さい」と言おうとして、顔を上げた瞬間、アスカは自分の身に起きたことを一瞬理解出来なかった。
 ヒサシの唇が喋ろうとしたアスカの唇を塞いでいたのだ。あまりの出来事にアスカはされるがまま、その場に立ちつくしていた。反論しようにも唇を塞がれていては、声を発することさえ出来ない。やっとの思いで、アスカはヒサシの肩に手を当て押しのけようとした。


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