小説「サークル○サークル」01-82. 「動揺」

「お待たせ致しました」
 しばらくして、アスカはヒサシに呼ばれて、再び彼の前に立っていた。
「おかわりを」
 静かにヒサシは言い、アスカはドリンクの注文をマスターに伝えに行く。ドリンクが出来上がると、ヒサシの元へと運んだ。
「バーボンでございます」
「ありがとう」
 ヒサシはドリンクをコースターの上に置こうとしたアスカから、わざと手を添えて受け取った。初めて触れるヒサシの手にアスカの鼓動は高鳴った。
「キレイな手をしているね」
 ヒサシは事もなげに言う。
「そんなことありませんよ」
 アスカは速まる鼓動に気付かれないよう、俯きながらヒサシの言葉に応えた。
「白くて、細くて、もっと触れたいと思ってしまう」
 歯の浮くようなセリフもヒサシは照れることなく口にする。それは酒が入っている所為なのか、生まれ持った才能なのか、アスカには測りかねたが、それでも彼に言われると嫌な気はしなかった。まるで、漫画や小説の主人公になった気分さえするのだから、自分も手に負えないな、と呆れてしまう。アスカが顔を上げると、ヒサシの両の瞳がアスカをじっと見据えていた。

「サシアイ」14話

ナイフの切っ先が震えている。
罪の無い動物を傷つける悲しみや辛さは、まともな神経を持った現代人であれば、誰でも持っているはずだ。しかも享楽を目的に━作業中、俺は何度も涙を拭った。
「ははは、槇村か?
 俺も珍しい酒を手に入れたぞ。今から試飲会をやろうぜ」
ここまでやったんだ、俺の勝ちでなければ困る━それは強迫観念に近い。言わば思い込み、捏造された安堵感に自然と笑いが込み上げた。
「……珍しい、酒?」
電話口の向こうから、槇村の不安げな声が聞こえてくる。
「ああ、猫の心臓を酒に浸けた“猫肝酒”っていう薬種だ。滅多に手に入らない珍品だぜ」
そんなものは世界中どこにもなかった。たった今、俺の手で生み出されたオリジナルだ。
「ははは、それは珍しいね。あはは、酷い奴だな、君も━」
「ああ、そうとも。
 どうだ? あはは、俺の勝ちだろう?」
すがる様な思いで携帯電話を耳に押し付ける。じっと槇村の返答を待った。
「うふふ、どうかな。僕なら、もっと珍しい酒を入手できるけどね━」
明るく笑いながらも、槇村の声音は震えていた。対する俺は悲鳴に近いトーンで、判定に不服を申し立てる。
「いやいや、俺の勝ちのはずだ!
 なぁ、槇村、そうだろう!? これは俺の勝ちだぜ!」
「まだだよ。
 勝手に決めないでよ、僕はまだできる……」
「駄目だ、俺の勝ちだ! 頼む、槇村、そうだろう!?」
「あはは、楽しみにしていてよ」
無情にも通話と共に俺達の精神の糸が断ち切られた。

小説「サークル○サークル」01-81. 「動揺」

「そうだなぁ……。落ち着いているから、既婚者なのかな、と思ったけれど、若そうだし、独身かな?」
 ヒサシは然して悩んだ様子もなく、さらりと答えた。
「えぇ、そうなんです」
 アスカはあっさりとヒサシの言葉を肯定した。
 それが良かったのか悪かったのか、アスカにはわからない。けれど、仕事を遂行しているという点では正解だと思った。少なくとも、これでヒサシが自分を浮気相手の一人にする可能性は上がった、さすがのヒサシも既婚者をターゲットにすることはないだろう、と踏んだのだ。アスカは次に言うべき、適当な言葉を探していたけれど、見つけることが出来ずにいた。ヒサシが口を開こうとした瞬間、遠くの席からアスカを呼ぶマスターの声が聞こえた。
「すみません、失礼します」
 アスカは会釈をし、ヒサシの元を後にする。内心、そっと胸を撫で下ろした。あのまま、あの場にいては、きっと何かしらボロを出していたに違いない。アスカはマスターの指示従い、別の客に食事を運ぶ。そんなアスカの姿をヒサシはじっと見据えていた。

「サシアイ」13話

果たして、照らし出されたダイニングテーブル上の酒瓶の中には、正体不明の肉片が沈んでいる。それが何の肉なのか、どこで入手したものなのか、問い質してみる気にはとてもなれなかった。いや、軽い嘔吐感がこみ上げていたので、出来なかったというのが正しいかもしれない。
「野良犬でもと思ったんだけど……。
 なんというか、飼い犬を間違える可能性を鑑みると、ひと様に迷惑をかけるのは良くないかな、と思ってね」
淡々と答える槇村は、笑っているような、悲しんでいるような、奇妙な表情を浮かべていた。その場にへたり込んだ俺の顔を覗いてくる。
「さあ、ここまでやったんだ━僕の勝ちだよね?」
そう言って詰め寄る槇村の瞳には、狂気の陰りが見て取れた。そして槇村の報告を鑑みれば、恐らく俺の瞳にも同種のものが宿りつつあるのだろう。
まずい。この流れはまずい。
負けたと言え━このまま付き合えば、俺も槇村も……。
胸中、冷静に叫ぶ俺がいる一方、自分だけが置いていかれる恐怖、それを完全に払拭する好機だと囁く何者かもいた。
また同じスタートラインに立つために避けては通れない、そんな啓示が痺れた頭蓋に鳴り響く。
やがて、俺の唇は、別の意思を持ったかの様に蠢き、細く震える声を漏らした。
「常識の範疇だな……」

「サシアイ」12話

「まあ、上がってよ━」
そう手招きした槇村の袖口に奇妙な染みを見つける。
(赤い……、血か?)
「なかなか忙しくてさ……。
 君もだろうけど、酒の知識に関してだけは誰にも譲れないところがあるんだ。実際、頼られたりもしているし、日々勉強で疲れているのかもしれないな」
評論家の事を言ってやがるな━嫉妬の苦味が俺の胸に滲み出した。
「“狗肉酒”ってのがあってさ。
 犬の肉を浸け込んだ強壮を目的とした薬酒なんだけど、何故か、これがなかなか手に入らないんだ……」
 リビングは薄暗かったが、ダイニングテーブルの上に口の大きな酒瓶の置いてあるのは分かった。同時に独特の強いアルコール臭が鼻を刺す。
「でも、製法は分かったんでね。
 これはひとつ、自家製“狗肉酒”を試してみるしかないかなって……」
俺は足を止めた。いつまで経っても槇村の友人と認めず、無遠慮に吠えかかってくるハウンド犬の“歓迎”がない事に気付いたのだ。
嫌な予感に佇む俺に嘆息し、槇村がリビングの照明のスイッチを押した。


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