大学の講義と酒探し━睡眠時間すら削られる状況だったが、俺も槇村も例の試飲会を止める事はなかった。
「これは知ってる?
“雄蛾酒”っていう中国の薬酒だ。雄の蛾の胴体部分を浸けたものさ。強烈でしょ?」
「そんなのは常識の範疇だな。
中国ならこっちの方が凄いぜ━ガマガエルの脂肪を浸け込んだ酒だ」
「悪くないけど、稀少ってほどではないかな。
これは“虎骨酒”━トラの骨を酒に浸けて、その強さを得ようというシャーマニズム的な意味合いから生まれた珍品さ」
「それも常識━。
こいつはこっそり紹介するが……、様々な動物の睾丸を浸けた違う事な強壮酒だぜ」
より珍しいもの、相手が入手していなさそうなものを追い求めるうち、試飲会に用意される酒は、どこか奇を衒った、アンダーグラウンドな珍品が多くなった。結果、二人とも一口も飲まずに終了する日さえあった。
それでも、槇村がすでに所有済みの酒を紹介するのは屈辱的だったのだ。恐らくは槇村もそうなのだろう。
試飲会に持ち寄られる酒のラインナップは、徐々に珍妙さの度合いを増していった。
「だから、今日は少し話し相手になってもらえませんか?」
相変わらず、紳士的な物言いにアスカはくらっとしてしまう。
「はい。幸い、今日はお客様もいつもより少ないですし」
アスカが笑顔で返すとヒサシも微笑み返した。こんなにも容易く微笑み返す男はなかなかいないが、それが女の心を簡単に掴んでしまえる理由なのかもしれない。アスカはヒサシが激昂したり、不機嫌になったりする情景を思い浮かべることが出来なかった。いつでも穏やかに物事を解決してしまえるような気がしていた。きっと女をイライラさせたりはしない。そんな風にさえ思えた。
女は余裕のある男に弱い。それをきっとヒサシの端々に出る態度で感じるのだ。そして、妻帯者でありながらも、他の女はヒサシの魅力に憑りつかれてしまう。もしかしたら、この余裕は妻帯者だからこそのものかもしれない。けれど、ヒサシの魅力に憑りつかれた女にはそんなことなど関係なくなってしまうのだろう。独身の男にはない魅力で女の心はいとも簡単に骨抜きにされてしまうのだ。
「あははは、やっぱりな、ははははは!」
クールな槇村が懸命に値段交渉する様子を想像し、俺は思わず吹き出してしまった。
「何が可笑しいんだよ、お前、大丈夫か?」
「ははは、大丈夫さ! むしろ爽快だぜ!」
「お前、まさか……」
「ん?
いやいや誤解だ! 一口も飲んでないって!」
講義をさぼって昼間から酒を飲んでいやがった、そんな悪い噂━まあ、ほとんど真実なんだが━を触れ回られてたまらない。俺は込み上げる笑いを奥歯で噛み殺した。
「とにかく大学に来いよ。一応、みんな心配してるんだからな」
「分かった、分かった、ありがとな」
あの槇村がそこまで追い詰められているのだ。先に降りられるものか。
しかし、自ら志望し、親に仕送りを強いてまで通わせてもらっている大学だ。
この不景気、酒屋の上がりなど知れている。これで留年となれば、親がどれだけ落胆するか。さすがにそれは辛い。
俺は酒を探索する忙しさにプラスして、最低限の講義に出席せざるを得なくなった。
ヒサシは珍しくバーボンを頼んだ。アスカはオーダーされたバーボンとミックスナッツを持って、ヒサシの元へと行く。ヒサシのところにオーダーの品を持って行くだけなのに、ドキドキする自分に内心苦笑した。これではまるで片思いをしている中学生のようではないか。
ヒサシの前に着くと、アスカはオーダーの品をテーブルの上に置いた。
「バーボンとミックスナッツでございます」
アスカの姿を見て、ヒサシは笑みを零した。瞬間、アスカは胸の奥がきゅんとしたことに驚いた。完全に自分がヒサシに気持ちを奪われていることに気が付いた瞬間だった。
「今日は一人なんだ」
訊いてもいないのにヒサシは言った。
「そうなんですね」
「今、珍しいと思ったでしょう?」
「はい」
アスカは素直に答えた。今更、ヒサシになんの遠慮がいると言うのだろう。嫌という程、ヒサシが違う女を連れて来ていたのを見ていたのだ。
「たまには一人で飲みたくなることもあるんですよ」
ヒサシは言って、苦笑する。伏し目がちの目に何だか哀愁まで感じてしまうから不思議だ。完全にヒサシに心を奪われているのだ、とアスカは思った。どこか冷静でいられるのは、彼女がヒサシとの接触は仕事の一環だという自覚をしているからに他ならない。けれど、いつか仕事だというこの自覚を飛び越えてしまいそうなことに、アスカは不安を感じていた。
珍しい麹を使った日本酒だの、歴史上の人物が醸造した焼酎だの、果ては酒瓶自体が年代物の陶磁だの、珍しい酒の噂を耳にすれば、東西南北、何処へでも向かった。
槇村に試飲会で勝利する━プライドと嫉妬、伴う知識探究への喜び、様々な要素が相まって、いまや俺の生活はそれだけに占められていた。
自然と大学は休みがちになり、この一ヶ月は顔も出していない。
今日等、同じ学科の友人が心配し、電話をよこしてくれた。
「おい、どうして大学来ないんだよ!
このままじゃ単位が足りなくなるの、分かってんだろ!?」
「いや、心配させて悪いな。ちょっと調べ物が忙しくってさ」
「調べ物?
論文か何か、か? なんなら協力するぜ?」
「ああ、うん、そうだな。
お前さ、何か珍しい酒とか、うまい酒とか知らないか?」
絶句に次いでの深いため息。俺の酒好きを知っているせいもあり、さすがに友人は呆れたらしい。
そのまま電話を叩き切ろうとするのを慌てて止める。ひとつだけ確認したい事があったのだ。
「時に槇村━槇村卓はどうしてる?」
「ああ、お前と同様にずっと休んでるよ。
休みの時期が完全に被っているもんだから、お前らおかしな仲なんじゃないかと疑われてるぜ」
予想通りだ。試飲会では余裕を見せてはいるが、既に槇村もネタ切れに違いない。俺と同様、全国を駆けずり回って、奇酒を求めているのだろう。